民主的に民主主義を否定したら 現代の非理論(5)

松本 仁一(ジャーナリスト・元朝日新聞編集委員)

 チュニジアで2011年1月に始まった反政府運動は、それまで23年続いた独裁政権を打ち倒した。
 その民主化の動きは「ジャスミン革命」と呼ばれ、アラブ社会の独裁国家に広がる。翌2月、盤石と見えたエジプトのムバラク体制が崩壊。10月にはリビアのカダフィ体制が打ち倒された。動きはシリア、イエメンにも波及し、中東はいまも激動中だ。
 しかし中東の民主化は、東欧の民主化とは大きく違う結果になってしまうことが多い。
 1991年のアルジェリアがそのいい例だ。

◇   ◇   ◇

 1834年にフランスに併合されたアルジェリアは、130年間にわたって植民地支配を受けた。
フランスの「海外県」となる。フランス人植民者の中には、住みついて4代、5代になる者もいた。
 しかし、アラブ人住民は差別された。独立を求める人々は1954年、秘密組織「アルジェリア民族解放戦線」(FLN)を結成し、独立闘争を開始する。
 フランスはこれに厳しい弾圧で応じた。そのためFLNの活動はかえって先鋭化し、爆弾テロを含む激しい武装闘争となる。テロは苛烈で、幼い子どもたちまでが爆弾の標的になった。
 闘いに疲れた仏ドゴール大統領はアルジェリア支配を断念する。62年、FLNはついに独立を勝ち取り、一党独裁の社会主義政権を樹立した。
 その輝かしい勝利は「アルジェの戦い」という映画にもなる。当時の日本の若者の反体制意識を大きく刺激し、大学闘争へと発展していく。ベトナム解放闘争とともに、1960年代を代表する民族解放の闘いだった。

◇   ◇   ◇

 問題はそこからだ。
 絶対権力を手にしたFLN政権はあっけなく腐敗してしまうのである。党幹部の汚職、蓄財、縁故主義。豊富な良質油を産出していたが、その富は指導部に独占され、海外の銀行口座に流出した。国内経済は回らなくなり、失業とインフレで大衆の不満が強まった。
 FLNは当初、大衆の批判を抑圧していたが、やがて抑えきれなくなる。とうとう89年、複数政党制による民主選挙を約束せざるを得なくなった。
 総選挙は91年12月に行われた。FLNは惨敗する。勝ったのはイスラム政党「イスラム救国戦線」(FIS)だ。
 FISは第1回投票で8割を獲得。未確定議席を決める翌92年1月の第2回投票が行われれば、9割近い議席を占める見通しとなった。
 絶対多数を確実にしたFISは、次々にイスラム主義のマニフェストを打ち出す。
 「議会と憲法は停止する」
 「すべての政治はコーランに基づいて行う」
 「女性の参政権と教育は制限する」
 「女性はベール着用を義務とする」
 「飲酒を禁ずる」
 「映画や音楽は規制する」
 ‥‥‥
 民主的に自由選挙を実施したら、民主主義を否定する組織が圧勝してしまったのである。
 イラン型のイスラム独裁国家になることを恐れ、フランスなどに移住する国民が出はじめた。
 こんな選挙でも、民主主義の結果として認めるべきなのだろうか。

◇   ◇   ◇

中学生のとき、社会科の教師が「民主主義を否定する意見を受容するのも民主主義なのだ」といった。
1955年ごろ、つまり戦後10年が経ったぐらいの、民主主義という言葉がきらきら輝いていた時期だ。すごいな、民主主義って懐が深いんだ。そう感動したことを覚えている。
 しかし、民主主義を否定する意見が多数を占めたら、民主主義はどうなるのだろう。そのときなぜそう質問しなかったのか、今でも悔やまれる。
 そうなったらその社会は民主主義ではなくなってしまうではないか。教師が熱く語った民主主義の懐の深さは、実は「否定意見が少数の場合」だけなのだ。
 1930年代、ナチスドイツが選挙で多数を占め、民主制度を破壊して独裁体制を築き上げる。しかし英仏は「民主的選挙で選ばれた政府だから」と傍観した。ドイツがユダヤ人虐殺を始め、ポーランドに侵攻してからあわてて軍事介入する。その間に数百万人の命が失われた。
 イランもそうだ。パーレビ王政の独裁に不満を抱いた国民は1978年にイラン革命を引き起こし、ホメイニ師の政府を圧倒的多数で支持した。そのホメイニ政権がやったのはイスラム国家の建設だった。
 「すべてをコーランに」
 「女性はベールをかぶれ」
 「酒を飲んではいけない」‥‥‥
 アルジェリアと同じだ。ホメイニ政治はイスラム独裁となり、宗教警察による恐怖政治が始まった。

◇   ◇   ◇

 アラブ社会では、腐敗政権に対する不満のエネルギーはイスラム組織に吸収される。なぜそうなるかの典型的なケースを、駐在していたエジプトで目の当たりにした。
 1992年10月、カイロを大きな地震が襲う。下町の貧困地区を中心に死者約600人、負傷者1万人超の被害が出た。
 翌朝、被災現場を見て回った。あちこちの空き地に緑色のテントが並んでいる。イスラム原理主義組織「ムスリム同胞団」の救援テントだ。パンや缶詰を山と積み上げ、行列した人々に配っている。医療テントもある。私服のシャツに赤新月の腕章を巻いた同胞団の医師が、やはり私服の看護師とともに、汗まみれで治療に当たっていた。
 対照的に、政府の動きは鈍かった。崩れた建物の下に生存者がいるとみられていたのに、軍隊も出動させなかった。生き埋めを救い出したのは、がれきの山を手でかきのけたフランスの救援チームだった。
 ムバラク大統領は「死亡した遺族には弔意金5000ポンド(約18万円)を渡す」と表明した。ところがその金が遺族に届かない。取材した遺族の一人は「もらったのは500ポンドだけだった」といった。9割が役人にピンハネされてしまったのだ。
 被災者まで食い物にする政府と、献身的に世話するムスリム同胞団。人々がどちらを支持するかは明らかだ。
 エジプトでは医療は無料だ。しかし公立病院は大変な混雑で、早朝から並んでもその日のうちに診察を受けられないことが多い。日銭暮らしの人々にそんなひまはない。金持ちは私立病院に行くが、貧しい人々は病院に行けず、医療は受けられない。結局、無医療と同じなのである。
 そんな人々を支えていたのは、同胞団が運営する診療所だった。同胞団系の医師が交代で診療に当たる。診療費は民間病院の2割、薬代は1割。失業者や生活困窮者は無料だ。人々は文句なしに「頼れる同胞団」を支持する。
 アラブのほとんどの国がそんな状態だ。だから規制なしの自由選挙を行えば、イスラム組織が圧倒的に票を集めるということになる。
 「行き過ぎというのは大変革の過程ではよくあることで、必ず是正の動きが起きるものだ」という人もいる。しかしイスラム国家主義者は議会や憲法まで変えてしまう。そのため、修正の機能はなかなか働かない。
 イランでは、1978年のホメイニ革命いらい40年が過ぎたが、いまだ是正されていない。その間に10歳の子どもは50歳になった。宗教独裁を批判する者は逮捕され、多くが命を失っている。私はその一人になりたくない。

◇   ◇   ◇

 アルジェリアの話に戻る。
 92年1月の第2回投票の直前、アルジェリア軍が急きょ介入した。選挙を打ち切り、FISを非合法化してイスラム政権の成立を阻止した。
 アルジェリア軍の幹部は旧宗主国のフランスで訓練を受けており、合理主義的な考えを持っている。イスラム政権になると国際的に孤立し、国の将来にプラスにならないと判断したのだ。軍の介入のため、アルジェリアはかろうじて「第二のイラン」にならずにすんだ。
 ムバラク政権打倒後のエジプトもそうだった。ムスリム同胞団のムルシ氏が大統領に当選すると、閣僚や州知事に同胞団の人物を任命してイスラム色を強めた。とたんに軍が介入してムルシ氏を排除した。中東のいくつかの国では、軍がかえって独裁にブレーキをかけている。
 民主主義を守るためには、その経過や結果を規制しなければならないことだってあるのだ。それをどうやって実行するか。そこが問題である。
 民主主義というのは、お任せで放っておくわけにはいかない、気の抜けないシステムなのである。

 ◎まつもと・じんいち
 1942年長野県生まれ。68年朝日新聞社入社。ナイロビ支局長、中東アフリカ総局長(カイロ)などを経て編集委員。中東報道でボーン上田国際記者賞、連載「アフリカで寝る」で日本エッセイストクラブ賞、「カラシニコフ」で日本記者クラブ賞、「プロメテウスの罠」で新聞協会賞などを受賞。

(現代の理論 2019春号)