「ヒトラーへの285枚の葉書」 戦時下の抵抗する勇気と「悪の凡庸」を問う 2017年秋

木村 結(東電株主代表訴訟事務局長) 

■あらすじ

 ドイツ、ヒトラーが支配する国にあって軍需工場で帝国の命令のまま仕事を忠実にこなすオットー。そしてナチ党の国家社会主義女性同盟のメンバーとしてヒトラーの手先となり家々を回るアンナ。慎ましくも幸せな彼らの生活はひとり息子のハンスの戦死の知らせによって一変する。二人の笑顔はもちろん会話すら奪い去った最愛の息子の死。
 オットーは、絵葉書の裏に「総統が私の息子を殺した。あなたの息子も殺されるだろう」と書き、それを公共の建物の階段や壁にそっと置いて立ち去る。筆跡を隠しながら一文字一文字心を込めて絞り出す言葉。オットーは通勤の経路でひっそりと2、3枚の葉書を買い、夕食後にしたため、翌日通勤途中で葉書を置く。誰にも見られないよう、同じ処を避け、住まいや通勤先がわからぬように細心の注意を払って行動する。アンナも手伝うようになり、オットーが見つかりそうになった時には機転を利かせて追跡者をかわすシーンも。
 葉書はほとんどがゲシュタポに届けられ、犯人を早期に見つけるよう命じられたエッシャリヒ警部は、犯人ではないと知りつつ疑われた男を射殺し苦悩する。彼は刑場に行くオットーに「何かできることは」と語りかける。オットーは「葉書とペンを」。オットーの抵抗の確信が描かれる。エッシャリヒ警部は壁に張られた葉書の発見地を示す地図を破り、285枚の葉書を窓から振り撒く。この映画は原作にほぼ忠実に描かれているというが、原作はハンスが、旧ゲシュタポから借り出した「ハンベル事件」を元に自分の体験を加えて書き上げたとのこと。葉書も記録も残っており、窓から撒いたのは監督の脚色ではあるでしょうが、オットーが書いた葉書の1割ほどがゲシュタポに届けられなかったという話は救いである。
 二人が捕まり絞首刑にされたこともわかってはいても、彼らが捕まらぬよう、彼らの葉書を多くの人が読み他の人の目に触れる場所に再び置かれるよう祈りながら、心臓が高鳴っていた。
 彼らは指紋を残さぬように手袋をし、ゲシュタポに踏み込まれてもインクや手袋が見つからないよう壁に掛けたフライパンの中に隠すなど、毎日毎日が警察や隣人の目との闘いであったことも凝縮されている。アンナを演じたエマ・トンプソンの目線は、さりげない行動の中に緊張感を感じさせる。

■原作者ハンス・ファラダ

 この原作は「Alone in Berlin」ハンス・ファラダ(ペンネームで、ハンスもファラダもグリム童話からの命名)の作品。帝国最高裁判所判事に上り詰めた父と中流家庭出身の母に育てられ、ドストエフスキーやディケンズの作品に没頭。16歳の頃、荷馬車に轢かれる深刻な事故に遭遇、また腸チフスの後遺症から薬物依存になり、自殺願望とホモセクシャル傾向もあり、社会に同性愛嫌悪が強まっていく中、同性愛者同士で決闘を装い自殺するという行為に出たが、彼だけが生き残る。多くの作家が投獄され、またアメリカなどに逃れる中、ドイツの農地を愛するあまり残る選択をしたハンス。農民闘争を描いた小説が絶賛され、ナチスに「反ユダヤ小説」を書くよう要請され、結局従ってしまう。その他は差し障りのない童話などを書いてしのいでいたが、そうした創作活動の曖昧さも彼の精神を蝕み、妻を撃って通報され精神病院に拘禁された。ナチスの瓦解が始まった1944年12月釈放。その後、彼は裕福な女性と再婚するが、二人ともモルヒネ中毒になり入院。ハンスは病院で本作の執筆に取り掛かり、たった24日間で600頁の本作を書き上げ、そして3カ月後に亡くなったという。
 オットーとアンナという組織に属さず、二人だけでヒトラーの悪政への抗議を続けた実在した夫婦の物語を書き上げることに全身全霊をつぎ込んだハンス。作家として筆を折ることもできず、抵抗運動をすることもできず、ひたすら自らの弱さに甘え、薬物に溺れていた自分への贖罪だったのだろうか。
 ドイツで出版されてから63年を経てようやく本作は英訳され映画化された。ドイツ国内では高い評価を受け、テレビドラマにもなり映画化もされている本作が何故、国外で評価されなかったのか。それはトーマス・マンに代表される海外移住作家が、ドイツに残りナチに迎合的な作品を書いたハンスたちを嫌悪していたからではないか。トーマス・マンはハンスについて「不合理な偏執かもしれないが、私の目からは、1933年から1945年の間にドイツで出版されたいかなる本も、無価値どころか手を触れるのも汚らわしい代物である。血と恥の匂いがそこには染みついている。一冊残らず轢き潰してパルプに還すべきである」と表現している。

■ドイツ人の罪を暴く映画

 1960年アルゼンチンでアイヒマンが拘束され、全世界のトップニュースになった。これはドイツ人検事フリッツ・バウアーの執念が実を結んだもので、ドイツ国内のナチスの残党との闘いの末、イスラエルのモサド(諜報特務庁)に拉致させた(映画「アイヒマンを追え!」2017年)このバウアーの執念は「アウシュビッツ裁判」をも実現させていく(映画「顔のないヒトラーたち」2015年)。そしてここで暴かれていくのは単にナチスだけでなく、600万人ものユダヤ人を虐殺することを薄々知りながら黙って従っていたドイツ人たち。アウシュビッツ裁判を実現するため奔走する若き検事は自らの父親たちの罪をも暴くことに苦悩する。それは、映画「ハンナ・アーレント」でも描かれる。ハンナは、新聞社の依頼でアイヒマンの裁判を傍聴。アイヒマンが、「私は命令に従っただけ」「殺害するか否かは全て命令次第」「上に逆らったって状況は変わらない」「ユダヤ人に憎悪があるわけではない」と淡々と話すことに衝撃を受け、「彼は役人なのだ」「彼には悪魔的な深さがない」「思考不能だった」「人間が行う一番の悪は利己心からくるものである」が「今世紀に現れた悪は予想以上に根源的なもの」「人間を無用の存在にしてしまうこと」「強制収容所は被収容者に対して無用の存在であると思い込ませ殺害した」「強制収容所とはいかなる行為も感情もその意味を失う処」「無意味が生まれる処」「全体主義の最終段階で絶対的な悪が現れる」「人間的な動機とも無関係」「もし、全体主義がなかったら我々は根源的な悪など絶対に経験しなかった」と展開し『悪の凡庸さ』という言葉を世に問う。
 同時に、アイヒマン裁判で語られたユダヤ人社会の指導者(ラビのことか)たちが抵抗を諦めてしまい、消極的ながらもナチに協力したこと、ラビたちがいなければユダヤ人の死者は450万~600万人までには増大しなかったであろうと。ハンナの主張は若者には受け入れられたが、過去に向き合いたくない(自分たちは正しかったと)、人生のすべてをラビに依存している人々からはナチ擁護派とまで言われ罵詈雑言の対象となった。

■ミルグラム博士の実験

 『悪の凡庸さ』を証明する実験とも言えるのが映画「ミルグラム博士の恐るべき告発」2017年。心理学の世界では有名な実験ですが、被験者が問題を間違えるたびに電気ショックを与え、しかも徐々に強くしていくという役割を与えられた人間は、被験者は心臓が弱いと言われても、苦痛のあまり叫び声をあげても、やんわりと「続けてください」と命令されるだけで電気ショックのスイッチを入れていく。その電気ショックは実際になされてはおらず、叫び声も演技であることを後で知らされるのだが、何がしかのお金をもらい、仕事を与えられると、良心より任務への忠誠が勝ってしまう人間たちを淡々と映し出す。
 自国の犯罪に向き合うドイツというイメージが強かったが、ヒトラーのせいにして蓋をしていた時代もあり、未だにそう思いたい人々が多いことも事実。やはり自分の親や身内の罪と向き合うのは簡単にできることではないだろう。ましてや日本の場合は戦争の最高責任者であった天皇には何のお咎めも無く「国の象徴」とされ、軍国主義のシンボルだった靖国神社にA級戦犯までが祀られ、A級B級戦犯が米国と取引をしてCIAとして日本の指導者として君臨するなど、結局殆ど誰も責任を取ること無く安穏と暮らしている。
 指導者に社会的責任を取らせないどころか政治にも経済にも彼らが君臨している社会は、何度もかつての栄光を取り戻そうとする。今日本で起こっていることはまさに戦後処理を間違えてしまった日本人を苦しめている。オットーとアンナのように抵抗する勇気がない者は、暗黒の時代が来ないようアンテナを張り、投票行動だけでなく、日頃から政治に直接コミットし続けなければならない。

(現代の理論 2017秋号)

■「ヒトラーへの285枚の葉書」は2026年7月現在、下記などの配信サービスで視聴することができる。
(編集部)

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