レキオからの便り 2 牧志界隈 2017年夏

上間 常道(出版編集)

古さ隠すカラーペイントビル

 私の出版編集事務所は、那覇市牧志1丁目、派手な外装の6階建ビルの2階にある。

 ビルがノッポなのは、各階に1DKの一部屋しかない造りのせいである。

 外装が派手なのはビルが古いからで、数年前オーナーが変わったさい、その古さを隠すために色鮮やかなカラーペイントでビル全体を塗りたくったから、確かに新しいビルのように見せかけることには成功し、付近の白っぽいビルとビルの間のわずかな垂直の隙間からのぞかせている姿を一瞥するだけで、それだとすぐに識別がつく。

 外装工事のさい、2畳ほどの広さのベランダにも草色のペイントが施されたが、それを担当した若い大工さんが、そこに置かれていたいくつかの鉢植えの観葉植物の葉っぱにも、下地用の白ペンキを水玉模様のように振りまいてしまったので、生きた植物が造花のように見えた時期がしばらく続いた。

ガーブ川の流れ

 目の前の小道に沿ってガーブ川という川幅が5メートルほどの小流が、右側の暗渠から突如抜け出して、ふつうの小川のように地表に現れ、左の方へ流れ去っていく。流れ去った方向に2、300メートルほど行ったところで、川は久茂地川と合流する。その合流地点に架かった橋は「十貫瀬(じっかんじ)橋」と名付けられている。

 小川といえば聞こえはいいが、都市の河川の多くがそうであるように、清流と呼べるような代物ではない。ドブ川とまではいかないが、大雨が降れば、発砲スチロールの箱や段ボール、アルミ缶やペットボトル、チラシ広告の紙片や木片などが汚水にまみれながら浮き沈みし、時にはくるくると渦を描きながら、急速に流れ去っていく。泥の川に変貌して、腐臭をただよわせながらフツフツとうなっている姿を見ると、そのうち溢れ出すのではないか、と、ちょっと不安になる。

 とはいえ、天気のいい日の夕方などには、西日を浴びた水面をキラキラと乱反射させて、テラピアの群れが泳いでいたりする。学校が引けたあと自宅に戻ってカバンを投げ出し、すぐに飛び出して来たと思しき少年たちが数人、目の前の柵から身を下方に乗り出して、テラピア釣りを楽しみながら、時折、喚声を上げたりしている。そんな初夏の夕暮れのひと時は、なにげない日常の時間の豊饒さを感じさせる一瞬でもある。

 暗渠は、沖映通りと通称されている道路の下に潜り込んで、国際通りの方向へ遡って行き、ドンキホーテ国際通り店とスターバックス那覇国際通り牧志店が対面している交差点、沖縄で最も人通りの多い交差点の一つ、むつみ橋交差点からは、南に向かって、水上店舗の下をくぐって遡行する。

 水上店舗は、国際通りから南の上流に向かって、ガーブ川むつみ通り商店街・市場本通り、ガーブ川中央商店街・市場中央通り、ガーブ川新天地商店街、ガーブ川太平商店街・新天地本通りに区分されている。ガーブ川と冠されている商店街が水上店舗に該当する。いずれもカマボコ型コンクリート造の長屋店舗(2階または3階建て)である。

 ガーブ川は、そこからさらに遡って、今は工事中の農連市場の中を通り、その敷地内で再び姿を地上に表し、隣接する那覇市立神原小学校と中学校の間をまっすぐにすり抜け、ひめゆり通り(国道330号)の下をかいくぐり、与儀公園の真ん中を斜めに横切って遡上する。ガーブ川がもっとも美しい表情を見せるのは、与儀公園を流れているときである。2月上旬ともなれば、川沿いに植え込まれたカンヒザクラ(寒緋桜)がいっせいに濃桃色の花を咲かせる。満開時には思わず見入って、われを忘れてしまうほどの光景だ。

 川をそこからさらに遡っていくと、ガーブ川の源流は、沖縄大学正門前の一帯に広がる住宅街・長田の上間高台寄りで、この辺りは、今は整然と区画された住宅街だが、私が東京から移住してきた1970年代初めには、湿地帯といってもおかしくないほどじめじめした陰気な感じの、葦の繁った低地で、人家らしいものは何もなかった。低地だから、そこが源流といってもなんだかおかしかったが、じっさいそこを源としていて、少し下ると、いくぶんかは川らしくなり、蛇行しながら、時には暗渠になって、那覇の街を縫うように流れている。

 有名書店の進出

 事務所向かいには、小路(スージ)とガーブ川を挟んで、ジュンク堂書店那覇店が入ったビルが建っている。

 2003年に那覇都市モノレールが開通し、ビルの向こう側に美栄橋駅ができたころまでは、このビルにはダイエー那覇店が入っていて、ビルはダイナハと名付けられていたが、それから2年後にダイエーが撤退すると、巨大な空きビルになり、そばを通る人影もまばらで、さびれた感じがただよっていた。

 私が事務所を構えたのは、その1年後の2006年だった。付近はさびれていたが、それはとりもなおさず、静かであることも意味していたから、本づくりにはいい環境だと判断した。家賃も寂(さび)れを反映して安かった。

 事務所のあるビルは、私が入ったころまでは、マンスリーマンションとして使われていたようで、入居を申し込む際、事務所として使いたい旨、仲介業者を通じて家主に伝えてもらったところ、暴力団関係でないこと、金融業でないことの2条件がクリアできれば何でもいい、とのことだったので、出版編集事務所として使うつもりだと伝えると、とても喜んでくれ、部屋に残されていたベッドは取り去るから、あとの収納家具は必要ならそのまま使ってくれ、なにか必要な家具があればいってくれ、倉庫があるから一緒に行こう、と誘われ、倉庫に行って使えそうな机を指定したのだが、家主の事務所に戻ると、奥さんがえらい剣幕で、この話はなかったことになった。

 ビルに入って3年後、なんという縁だろうか、ジュンク堂書店が真向かいに現れたのだ。それに伴って、ビルはD-nahaに改名された。それからは、人の流れががらりと変わり、行き来する人の数は増え、とくに土日は繁華街並みの往来になり、騒がしくもなったが、目の前に有名な大型書店が、誰かからの最高のプレゼントでもあるかのように現れたから、喜ばないわけにはいかなかった。

 そのころまでは、沖縄県立博物館・美術館のカタログの編集や、字誌などの編集・執筆などを主な仕事にしていたが、ジュンク堂が来たその年に、初めて単行本を刊行した。それが、後田多敦著『琉球の国家祭祀制度』だった。その取引を通じて、目の前に書店があることのありがたさをしみじみと味わった。なにしろ便利である。ファックスで注文が入ると、伝票を携えて、わずか五分後には納品である。

七つ墓と長虹堤

 ビルの向こう、美栄橋駅との間には、こんもりとした小山がある。表通り(沖映通り)に、D-nahaと並ぶように高層マンションが建ってからは、その姿を間近に見ることはできなくなったが、ビルの隙間からは、わずかだが、木立が見える。この杜を地元の人は「七つ墓」と呼び、首里王府時代に中国からやってきた冊封使たちは「七星山」と名づけた。古くからの那覇の名所である。「七星山」は、山の上の方に七つの古墓があるから(東恩納寛惇)、七つの岩の突起があるから(李鼎元)、七つの石が砂質の田んぼに立っているから(徐葆光)などの諸説があるが、地元で七つ墓と呼んでいることからすると、東恩納の説が妥当のようだ。山の上までは上ったことはないが、裾には数多くの墓が今も散在している。七つ墓以降に新たに掘られた墓なのだろう。

 この杜の前を斜めに横切る通りを長虹堤(ちょうこうてい)と呼ぶ。1451年、尚金福王が国相の懐機に命じて作らせた海中道路で、それまで東シナ海に浮かぶ孤島にすぎなかった那覇を首里と結びつける交通の要衝となったが、その出発点が崇元寺橋(安里橋)で、モノレールがその上を走る久茂地川にほぼ沿って、少し蛇行するように沖映通りに出て、七つ墓の前を横切って十貫瀬橋方向に延び、さらにその先の国道58号を横断して松山に至る道筋がそれにあたる。現在も道筋が明瞭なのは、十貫瀬橋辺りまでで、それから先は戦後の都市形成によって跡形もないが、終着地のイベガマと史料に記録されている場所は、現在の沖縄一の歓楽街・松山の入口近くと推定されている。

 また、崇元寺橋から七つ墓までの長虹堤の道筋は「十貫地」とも呼ばれ、20年ほど前までは那覇有数の歓楽街で、妖しげな店が軒を連ねていたが、次第に店の数は減少し、去年初めだったか、手に障害のある老女が営んでいたスナックが入っていた建物が解体されると、すべての店が消滅した。

ナイクブ古墓群

 事務所の狭いベランダは、お墓の背面に接している。まるでお墓に守護されているかのようだ。この琉球石灰岩の掘込み墓は、隣の数基の墓と連なっていたが、ベランダの向こうに広がる緑ヶ丘公園の整備に伴って、他の墓はきれいに取り除かれ、この墓だけが残った。清明祭(シーミー)の時節になると、ベランダから人の声が間近に聞こえてくる。屋根に上って墓掃除をしている男の姿がすぐそこに見える。隣の墓はすでに取り壊されているが、全部取っ払うと、この墓もろとも崩壊しそうなので、半分ほどを残してある。活き墓は、この半分に削られた墓に寄りかかるように立っている。

 これらの墓は、ナイクブ古墓群と呼ばれる古墓群の最北端に該当し、南側には多数の古墓が広がっていたが、公園化された地域にあった墓群は記録保存されたあと壊され、ほとんどは消滅した。しかし、パラダイス通りの向こう側、国際通り寄りの杜には、いまも多数の墓が残っている。沖映通りの沖縄銀行牧志支店の裏側から、国際通りのホテル山の内の裏側一帯にかけて広がる小高い杜がそれに当たる。この杜は沖縄戦当時、「牧志高地」と呼ばれた日本軍陣地のあった場所で、「第一大隊は牧志集落を制圧した」と、米軍の公式戦闘記録に記された1945年5月25日からほどなくして撮られたと見られる米軍の写真の中には、この高台から見た沖映通り付近の焼け跡の写真、逆に沖映通りの焼け野が原から写したと思われる禿山のようになった牧志高地の写真が含まれている。

 40年ほど前、緑ヶ丘公園一帯は、戦後間もなく建てられたと思われる、頼りなげにひしゃげた掘立小屋が乱雑に軒を並べ、その狭間を突き切ったかと思うと、そこは墓地、というふうな、陰翳に富んだ複雑な構造の街だったが、いまやおしゃれな都市公園にとって代わり、深いしわに折りたたまれた都市の記憶がかき消されようとしている。

【レキオ ポルトガル語で琉球のこと】
レキオスは琉球人。友好的で武器を持たず平和を愛する人達と、トメ・ピレス『東方諸国記』で紹介された。
『東方諸国記』は、マルコ・ポーロの『東方見聞録』に次ぐ、ヨーロッパ人による網羅的な海のシルクロード地誌として知られている。(Weblio辞書沖縄大百科より)

(現代の理論 2017夏号)

*アイキャッチ画像は Wikimedia Commons より