ドイツに暮らす(8)「地続きの戦争」―ウクライナに想う― 2022夏
フックス 真理子(ドイツ在住)
▶スマホの時代の逃避行
「ねえ、どこかタダで借りられる部屋知らない?」3月初め、ヴァイオリニストの友人エミールから、こんなチャットが入ってきた。「昔からの知り合いが、キーウにいる。もうかなり危ないので、逃げることにしたんだけど、ドイツにやってきても、ウクライナ避難民用の宿泊施設に行くのはいやだと言ってるんだ」。彼の知り合いというのは、キーウ市内の小学校で教師をしているオルガ。話を聞くと、キーウに迫るロシア軍の攻撃を恐れ、もう何日も自宅の地下室で暮らしているのだという。しかし、いよいよ戦火が激しくなり、キーウ陥落も間近と思えるようになった。避難所の生活がいやで、二の足を踏んでいたのだが、そうも言っていられなくなり、エミールを頼って、ドイツに避難しようと決めたのだという。エミールは彼の周りにいる人たちに、どこかに空き部屋はないか聞きまくったのだが、唯一見つかったのは2週間だけならいてもいいという条件。幸い、今は使っていない、私の公文の教室の屋根裏部屋にマットレスを入れれば、そこでなんとか暮らせる。エミールに知らせると、助かったという返事。それから事がとんとんと運び、ついにオルガが意を決して、ドイツにやってくることになった。
といっても、爆撃で空襲警報のサイレンが鳴り響く中、キーウ中央駅まで歩いていき、そこから電車に乗るというのは相当勇気の要ることだったに違いない。毎日毎日、今日こそ出発するという連絡は入ったのだが、結局最後にはやはり断念して引き返したという連絡ばかり。オルガの戦略は、最短距離のポーランド経由ではなく、西ウクライナから南下し、ハンガリー経由のルートを通って、南のバイエルンからドイツに入国するというもの。その方がまだ安全に見えたからだ。出国を決めてから何日も過ぎた3月半ば。もうこの電車を逃したら、おそらく逃げるチャンスはないと、ついに夜8時過ぎ、彼女は中央駅に向かった。ごった返す駅から電車に乗って、まず西ウクライナを目指す。爆撃に遭わないよう、電車は車内灯を全部消して走ったのだそうだ。ところでその模様は、逐一エミールの携帯のメッセンジャーアプリに伝えられた。私もエミールからの連絡を受けて、不安と祈る思いを交錯させながら、彼女の逃避行をフォローした。
私には、いわゆる東欧革命が勃発する以前から親しいハンガリー人の友だちがいて、ハンガリー西部に住んでいる。ふと思いついて、彼女にオルガのサポートを頼んだ。二つ返事で引き受けてくれた彼女と、エミール、私でメッセンジャーのアカウントを共有した。夜遅くまでオルガから連絡を待っていたのだが入らず、どうか爆撃に遭わないでくれと念じながら、その日は3人とも眠りに就いた。翌朝、待ちに待ったオルガからの連絡が入り、無事ウクライナ西部の町に着き、これからハンガリー国境を目指すという。ハンガリーの友だちは、その間に、彼女の知り合いで近くに暮らすウクライナ人に頼んで、オルガに直接連絡を取れるようにしてくれた。ちなみに、私の友人のエミールはマケドニア人、彼女とオルガはロシア語でコミュニケートしている。ハンガリーの友人は、かつてはモスクワにも留学していたことがあるが、すっかり忘れて、今やできる外国語はドイツ語だけと言う。そこで、オルガと直接ウクライナ語でコミュニケートできるウクライナ人をこの輪に入れたのだ。それにしても、これを見てわかるように、かつての東欧は、ロシア語が第一外国語かつ共通言語であり、それはとりもなおさずソ連の強大な影響を意味したのである。
その日の夕方ハンガリー国境に着いたという連絡をオルガからもらい、皆で安堵した。駅はウクライナ避難民であふれていて、彼ら専用の無料乗車券をもらうために、みんな切符売り場に並んでいるのだという。国境を越えたところでは、ボランティアが食料を配っていたらしい。ハンガリー人の友だちのウクライナ人が、オルガにさまざまな情報を与え、励ました。そこからブダペストまでまた電車に揺られる。電車内部は、避難民たちで立錐の余地もないほどだったそうだ。私は、2、3日ハンガリーの友人のところに泊まって疲れを癒してからドイツに向かうことを勧めたのだが、オルガはそのままドイツへの旅を続けると言った。再び、ブダペストの駅で、チケットをもらうために並んだ。軽食なども用意されていたらしい。そこでまたしばし連絡が途絶えた。翌朝、ついにミュンヘンに着いたという報告。もうこうなれば、デュッセルドルフまでは5時間ほど。キーウを出てから実に42時間後、中央駅まで迎えに行ったエミールとオルガは再会を果たした。
この行程の間、ウクライナでもハンガリーでもドイツでも、私はずっとメッセンジャーアプリで、オルガの動向を見守ることができた。インターネットがどこでも使える、今の時代ならではのことである。あらゆる情報を手中にして、自分に有利なところに逃げる難民の知恵もさることながら、彼らを支援する側にとっても実に助かる道具だった。
▶「難民」であることの難しさ
オルガは、最初の2日間は我が家に泊まった。デュッセルドルフからエミールがうちに彼女を連れてきたときは、疲弊しきっていたのだろう。夕方からベッドに入り、食事もとらずに翌朝までずっと眠り続けた。夜帰宅した私は、翌日初めて彼女と挨拶を交わした。これまたスマホのありがたさで翻訳機能を使って、彼女と会話できる。時間はかかるが、とりあえずの意思疎通はできる。オルガは意外に元気で、会話も弾んだ。私にとってそこでもっとも違和感があったのは、彼女がキーウから「お土産」を持ってきたことだった。そんなことに気を遣うゆとりがあったのかなと思ったのだが、エミールに言わせれば、彼女としては、知らない人のところを「訪問」するのだから、それは当然なのだという。

しかし、違和感はそればかりではなかった。その夜、私は食事を作り、夫とオルガと3人で食べたのだが、その食卓の席が、やたらにぎやかだったのである。みんなでワインを飲み、彼女はスマホでいろいろウクライナの写真を見せてくれた。彼女が小学校で担任をしていた児童の写真もあったし、遠足の楽しそうな場面を写したものもあった。当たり前のことだが、そこには、まったく戦争の影も形もなかった。その様子は、あたかも、休暇を利用して友人が遊びに来ているような感じだった。彼女の現実の運命を思うと、そこには大きな落差があり、とても奇異な印象だった。
翌日、彼女が当面居場所にする公文の教室に連れていって、いろいろ使い方を説明し、彼女もひとまず満足した様子だった。そこにやってきたエミールにヴァイオリンでウクライナ国歌を弾いてと頼み、それに合わせて、元気に歌っていた。それから1、2度、私は彼女を私が運営している公文の教室に連れて行った。することがなかったら、きっと落ち込むだろうし、算数の簡単な教材の採点くらいできれば、少々の収入にはなるだろうと思ったからだ。ところが、教室で彼女は、日本人スタッフが素早く採点するそのペンの音が不快だと言い始めた。また、スタッフが彼女に採点の仕方を教えたのだが、それが何か彼女を見下した態度だと言うのだ。結局、私は彼女を教室に連れていくのはやめた。その後、彼女の様子がどんどんおかしくなった。
数日間、起き上がれず、ずっと泣いたり、眠ったりしていたらしい。血圧が高く、頭痛がひどく、身体全体が疲れ切っているとこぼした。サイレンの音がひっきりなしに聞こえるともいう。最初のあの元気で、むしろ明るかった状態から、急激な変化が見えた。
エミールに、ロシア語で訴えたところによれば、何よりも一番こたえているのが、自分が「難民」として扱われていることなのだという。市役所に行って登録したり、銀行口座を開くために出向いたり。そのたびに、自分が難民だと認識させられる。公文の教室でスタッフがやり方を教えたのも、もちろん丁寧に説明したにすぎなかったのだが、キーウで長い間、優秀な小学校教師として仕事をしてきた彼女の自負がそれを許さなかったのだろう。オルガのドイツ語は、初心者レベル以下だ。どんな状況でも、コミュニケーションは円滑にはいかない。あらゆる場面で、自分の無力さを思い知らされる。それがどんなに悔しく、腹立たしいことか。しかも、オルガにとってみれば、「難民」は、シリア難民のような、見るからに疲弊した着の身着のまま逃げてきた非白人。自分がその難民と同等に扱われるということへの嫌悪感。そして、ネットを通して伝えられるのは、ウクライナの惨状。全部が全部彼女にとって厳しい状況であった。
▶難民受容の六段階
しかし、季節が進んで少しずつ温かくなると、それに合わせたかのように、オルガは少しずつ元気を取り戻していった。この原稿を書いている時点で、ドイツ語入門コースは満員でまだ入れず、彼女が希望している、ドイツに入国してきたウクライナのこどもたちのための教師としての仕事もまだ見つかっていない。それでも、5月に始めたロシア語補習校での時間講師をきっかけにようやく将来への展望と意欲を持ち始めた。
最初から今までこのプロセスを見守っていた私は、オルガの難民としての生活は、デーケン神父が「死の準備教育」(注1 アルフォンス・デーケン2003)の中で述べていた、死の受容プロセスの六段階を想起させた。死は、①否認 ②怒り ③取引 ④抑鬱 ⑤受容 ⑥期待と希望 のステップを経ることによって、最終的に受容されるというのである。難民という過酷な運命の受け止めは、このプロセスに似ている。換言すれば、難民として生きるということは、死を受容するに匹敵するくらい、人生でもっとも辛いことの一つなのだ。
▶歴史の既視感
このように、ウクライナ侵攻は、私自身の戦争や難民に対して漠然ともっていたイメージを根底から変えた。コソボ紛争を除いて、思えば、今まではこれらはどこか机上の問題ではあったのだろう。その意味の大きさを圧倒的に変えたのが「地続き」というファクターである。この自分の経験から浮上するのは、80年前、日本が戦争当事者であったとき、国内に住んでいた日本人は中国戦線や南太平洋の戦いを本当にわがことのように感じていたのだろうかという疑問である。
実は、今回の戦争を見ていて、今のロシアは80年前の日本にそっくりだと気が付く。国内に厳しい言論統制を敷き、戦争反対者を徹底的に弾圧する。戦争を正当化するプロパガンダを打ち立て、それを国民に信じ込ませる。そもそも戦争という言葉を使わない。ロシアは、特別軍事作戦と言い、日本では満州事変と呼んだ。敵の攻撃と見せかけ、自作自演で爆撃を行い、それを口実にして攻め込む。いわゆる偽旗作戦である。国民には自軍の行った残虐な戦争犯罪行為を一切知らせない。兵站をあまり考えずに、軍隊を展開し、結局、兵士たちは飢えに苦しむ。いよいよ戦況が悪化すれば、理由をつけて「転進」と言い、別の方面に軍隊を移動させる。この歴史の既視感! 今私たちがロシアのふるまいを、ほとんど狂気だと見ているのは、そのまま80年前の私たちに対する世界の見方だったのだと気づく。あの時、私たち日本人は国際社会にこのように見られていたのだ。
ところが、なぜか日本のリベラルの多くからは、その歴史の酷似に対する指摘がほとんどない。それどころか、国内における、欧米メディア丸写しを批判し、ロシアだけを悪者にしているのはおかしいと、ロシア擁護の陰謀論にのめりこむ。しかし、そのロシアは、彼ら日本のリベラルが、二度と戻らないように努力しているはずの日本の戦前の姿そのものではないか。今回日本における、SNSを駆使したロシアの情報戦の進め方は一定の成果を上げているように見える。さすがにドイツでは、手放しのロシア擁護論はほとんど見かけない。ドイツは東欧からの移民も多く、そもそも彼らの基本的な心的態度は、反米親ロであったが、こと今回の侵攻に対しては、圧倒的にロシア批判である。それは地続きの戦争の現実のためばかりではあるまい。やはりあの戦争についての、国をあげての、ナチスドイツに対する不断の学びと反省の結果であると筆者は見る。ロシアの専制政治は、皮肉にも、プーチンが非難しているナチスドイツのコピーそのものだと、ドイツに住む者はだれでもわかるのだ。
▶国のありかたの転換
ところで、その第二次大戦の総括のうえに立っているドイツが、このウクライナ侵攻を機に、急速に国のかたちを変えているのはかなり驚異的だ。長い間抵抗してきた、アメリカから要請のあった国防費の引き上げを、これを機に対GDP比2%に上げた。また、紛争地への武器輸出は原則として認めない政策をとっていたドイツは、他の西側諸国が相次いでそれを行い、四方八方から批判されても、社民党のショルツ首相は、そう簡単に首を縦に振らなかった。しかし、2月下旬にはその方針を覆し、まずは防衛的な一部の武器を供与し、4月下旬には、重兵器の輸出に踏み切った。むしろ、連立を組む緑の党は、社民党よりもよほど積極的で、早くから武器輸出の必要性を主張している。ウクライナへの連帯を示すためという、ベアボック外相によるアピールのもと、代議員集会でも重火器の輸出が賛成多数で可決された。環境政党、反原発、反戦、平和主義、フェミニズムを掲げる緑の党は、コソボ紛争のとき、NATOにドイツ連邦軍を送るということで党内が大議論となり、党分裂に近い危機的な状況だったことを思えば、隔世の感がある。
教会も同じだ。今回のウクライナ侵攻では、カトリック教会も、プロテスタント教会も自衛のための戦争という位置づけで、ドイツの武器輸出を容認している。侵略された人々の抵抗権という観点からこれは可能になるという解釈だ。
世論は、各種調査を見ると、4月半ばの時点で武器輸出賛成と反対が50%対35%程度である。例年平和のための行進が行われるイースターアクションでは、賛成デモが多数であり、シリア、アフガニスタン難民などもそれに加わっていたが、反対デモも一定数存在した。ドイツのリベラル左派を代表する論壇誌「シュピーゲル」では、武器輸出に反対するのは、現実を見ようとしない、自己の主義主張だけに満足している『ルンペン平和主義』だと揶揄されていた。ドイツのリベラルはこれからどのような方向に向かっていくのだろうか。
追い詰められたプーチンが核兵器の使用も辞さないと脅している今、ドイツを含め、西側諸国はさらに厳しい局面を迎えている。特にその恐怖は、地続きであるファクターも非常に大きい。ロシアに対してどのような態度を取るべきか悶々とする、そのこと自体がすでに戦争に巻き込まれている証拠だとも言える。それを思えば、人生の黄昏にさしかかっているドイツの高齢者が、どれほどの悲嘆を抱えていることか。私にはドレスデン在住の親しい80歳の友人がいる。彼は3歳の時のドレスデン空襲の記憶がトラウマのように残っていると言う。その彼が、まさか自分の人生のはじめと終わりが戦争に縁どられようとは思ってもみなかったと嘆息していた。それもかつてとは比較にならないほどの危機をはらんだ状況で。この記事が読者の手元に届くころには、この戦争もなんらかの形で収束していることを強く願っている。
注1 アルフォンス・デーケン「よく生きよく笑いよき死と出会う」2003
(現代の理論 2022夏号)

