【特集】憲法改正国民投票を考える 憲法学者 長谷部恭男さんの発言に注目 2017年夏
中川 登志男(茅ヶ崎市民連合事務局長・元神奈川県寒川町議会議員)
2017年7月31日、立憲フォーラムと自治体議員立憲ネット共催の市民集会「安倍9条加憲NO!シンポジウム」が東京千代田区の星稜会館で開催された。立憲フォーラムは国会議員で構成され、立憲ネットは超党派の自治体議員が参加する政治的ネットワークで私も参加しています。
シンポジウムは中野晃一上智大教授がコーディネーターを務め、パネリストには武村正義元衆議院議員、長谷部恭男早稲田大教授、辻元清美衆議院議員(民進党)が演壇に並んだ。
この長谷部さんと武村さん(旧さきがけ代表)を含んだシンポジウムは市民勢力と保守リベラルとの異色の組み合わせであったので、聞いてみたいと思い参加しました。
「私どもの時代は個別的自衛権の下での憲法改正論議であったが、安倍首相が言うのは集団的自衛権を含めた自衛隊ですから、これはあってはならないと思います。自衛隊という言葉が憲法に入ると言葉が独り歩きすることになると思います」「これからは自民党の一部を崩して巻き込んで、保守を加えた運動を幅広く展開することが大事になると思います」
この武村さんの発言を聞いて本当にそうだと思いました。
さて、当日のシンポジウムでの長谷部恭男さんの発言をまとめました。(以下要旨)
■自衛隊を憲法明記することの問題性
2014年7月1日、閣議決定で憲法9条に関する政府の有権解釈が変更された。閣議決定以前の政府見解は、憲法9条の下で許される武力の行使は個別的自衛権の行使に限定されているというものだった。他国から武力攻撃を受けた際に、それに対処するための必要最小限の武力行使だけが認められるというものだ。
2015年7月の閣議決定で、「国民の生命・自由・幸福追求権が根底から揺るがされる時」には、(日本ではなく)他国が攻撃を受けた場合でも、日本が武力を行使できる、つまり集団的自衛権の行使ができると言い始めた。
「国民の生命・自由・幸福追求権が根底から揺るがされる時」というのは、個別的自衛権を認める際の理屈だったが、同じ理屈で集団的自衛権の行使もできるのだというのは、まったく理にかなっていない。
安倍首相は憲法に自衛隊を明記すると言っている。自衛隊の現状を憲法に明記するだけなら簡単という気もしないではないが、現状の自衛隊は、7・1閣議決定後の集団的自衛権を行使できるという状態にある。もし、それを憲法に書き込むというのであれば大問題である。
■7・1閣議決定で自衛隊の行動範囲が不明瞭化
7・1閣議決定により、自衛隊による武力行使の範囲が極めて不明確になった。地球の裏側まで行って武力行使ができるようになったという人もいる。一方で、地球の裏側まで行くことはできないという人もいる。閣議決定や安保法制の下、自衛隊がどこまで武力行使できるのか、不明瞭だ。
まったく不明瞭な状態を憲法に書き込むということになるのは問題である。仮に、憲法に書き込むとしても、7・1閣議決定以前の状態に戻すことが必要となる。
しかし、7・1閣議決定以前の状態に戻したとしても、それを憲法に書き込むというのは簡単な話ではない。例えば、9条の1項、2項をそのままに、3項で自衛隊を持つことは妨げない、と規定したとする。どういう規模、どういう任務、どういう範囲で武力を行使するのか、憲法には書かれていないので、すべて法律に丸投げとなってしまう。フルスペックでの集団的自衛権が認められるという話にもなりかねない。
■自衛隊を明記しないことに意味がある
一方、個別的自衛権の行使だけが認められるという、自衛隊の以前の状況を憲法に書き込むというのはどうか。
私は、個別的自衛権の範囲内であれば、憲法上も武力を行使できると考えている。しかし、それを憲法に書き込まないということに重要な意味がある。憲法に書き込まないことによって、なぜ、9条があるのに自衛隊のような組織を置くことができるのか、その必要性や正当性を政府が一つ説明する必要が生じる。
憲法に書き込んでしまうと、「憲法に書いてあるじゃないですか」、「(自衛隊の必要性や正当性を)政府が説明する必要などない」と言い出しかねない。
憲法は法の一種ではあるが、日常的に遭遇する法律とは異なっている。例えば、道路交通法には、信号が青なら進め、赤なら止まれとある。本来、人がどう生きていくかは、自分が判断することであるが、法律は、自分で判断せず、法律に書いてある通りすることを求めている。その方が、人がすべきことをより効率的に行える、例えば、(信号を守ることによって)道路で歩行者や自動車をスムーズに通すことができる、といったことだ。
■有権解釈として役に立たない7・1閣議決定
しかし、憲法は違う。例えば、表現の自由を保障するといっても、名誉棄損の表現やわいせつ表現もし放題なのかと言えば、そうではない。憲法の条文は、それを読んだだけでは何をすれば良いのか分からないのである。9条も、文字通りに受け取って自衛隊をなくしてしまうと、国民の生命・自由・財産を守れるのかという問題がある。つまり、そうした条文については、テキストが頼りにならないのである。
だが、テキストが頼りにならないからと言って、政府が(自由に)判断することにはならない。憲法は、政府の行動を縛ることに意味があるので、(政府が自由に判断できてしまうと)立憲主義の原則が骨抜きになってしまう。こういう時に役立つのが「有権解釈」である。(条文を)解釈し、それに従うというのが9条にはあったのである。
しかし、7・1閣議決定は、何も理由がないのに解釈を変えてしまった。しかも、(新たな解釈によって)自衛隊は何ができて、何ができないのか、むしろ不明瞭になってしまった。有権解釈として役に立たないものを作ってしまった。一刻も早く、閣議決定前に戻さないといけない。
■政治家は憲法より日々の課題にエネルギーを
憲法の核心的な役割は、政治と社会のあり方の基本的な原則を定めており、それを中長期的に守っていくという部分にある。従って、簡単に変えてはいけないのである。憲法96条に憲法改正手続きが示されているが、かなり固い(憲法改正にはハードルが高い)手続きになっている。
それは、憲法は政治家が守るべき中長期的な基本原則なのであるから、思い付きで手を出してもらっては困る、日々の喫緊の政治課題――例えば、財政問題や労働力減少、保育の問題など――をどう打開するのか、そちらに政治のエネルギーを傾けてもらうように、憲法は簡単には変えられないようにしているのである。
憲法改正の国民投票については、項目ごとに(賛否を問う)というのが、現在の(国民投票法の)条項を素直に読んだ場合の解釈である。例えば、9条改正の話と、高等教育無償化の話と、緊急事態条項の話と、すべてを抱き合わせでイエスかノーか、といった聞き方はできないと解するべきだ。日弁連は(憲法改正国民投票では)項目ごとに賛否を問うように求めているが、恐らくは、そのことを念押ししているのだろう。
(国民投票運動の)テレビ広告は、規制がかかる期間もあるが、改憲発議から規制がかかる期間までは、やりたい放題ということになるだろう。どんどんお金をつぎ込み、広告を出そうという動きが出てこないとは限らない。それが総選挙と連動すると、例えば、改憲賛成の広告を出すこと、それ自体が総選挙に向けた暗黙の選挙運動になりかねない。(以上)
もし、国会(衆参両院)で憲法改正発議がなされたら、憲法改正条項は一つ一つ国民が判断し、投票することになる。憲法改正は最後は国民(主権者)が決めることになる。考えてみれば大変なことだ。日本の歴史上はじめてのことだ。安倍9条加憲反対の一大国民運動が求められているのかもしれない。自治体議員の一人としての責任を感じる。
(現代の理論 2017年秋号)

*アイキャッチ写真は衆議院ホームページより

