福島県大熊町議・木幡ますみさんに聞く 人間の復興こそ必要 2018年春

帰還した人々の悲しい決意
  復興風景に町民の心が萎える、それでも…

 あの時から7年。原発被災地は、そして被災者は今どうなっているのか。東電福島第一原発の立地町である福島県双葉郡大熊町の町議、木幡ますみさんに話を聞いた。
 木幡さんは2015年に大熊町議選に立候補、2位当選を果たした。議員活動と目指すところを語っていただいた。

「大熊町の明日を考える女性の会」の結成

 3・11は歴史的な出来事ですが、私にも忘れることのできない痛切な体験でした。震災と津波、その後の原発事故という二重の不幸が浜通りを襲いました。震災直後、メディアの多くは、困難にもかかわらず冷静さと秩序を失わない被災者たち、という報道をよくしていました。そういう一面も確かにあったと思います。でも私が見た現実はそんなものではなかったし、人の醜さを思い知らされることもたくさんあった。コンビニからは商品が持ち去られ、避難所では後から避難してきた人たちへの閉め出しさえあった。夜になって寒さに震える頃、やっとたどり着いた人に、中はもう一杯だからよそへ行けと、町の職員が言うんです。その上、職員はヨウ素剤のことも配るべきことすら知らなかった。だから町民全員には配られも服用もされなかった。誰もが自分のことで手一杯、パニックは至るところであったんです。仮設住宅に落ち着くまで、被災者は言い尽くせない辛さを経験しました。今もそれを胸いっぱいに抱えながら生きています。
 県内3箇所に大熊町民の仮設住宅ができるまでは、町民はそれぞれホテルや公共施設の仮避難所を転々とする暮らしで、情報共有の必要を感じて手作りの新聞を配っていたら、女性同士集まって話がしたいという機運が高まって、「大熊町の明日を考える女性の会」が結成されました。
 自分たちの町で起きた原発事故で、町はどんな状況になっているのか、私たちは大熊町に帰れるのか、将来はどうなるのか、不安でみんなたまらなかったんです。はじめは原発に疎かった女性たちも、事故はなぜ起きたのか、今何が起きているのか、そうしたことが知りたくて「女性の会」で集まり、必死に勉強しました。専門家にも話も聞き、帰れるのか帰れないのか、これから何をすべきか、1週間に1回から2回は集まり一緒に議論し考えました。仮設暮らしの中の問題も聞いてまわって集め、具体的な解決策を探ったりもしました。活動を重ねるなかで町や町会議員、県会議員、国会議員の方たち、ボランティアの方たちとの親交も出来ました。いわき市の放射能測定室「たらちね」にお願いし、甲状腺検査をいわき市まで行かなくても仮設住宅の集会所を借りて会津若松でも年に2回、検査ができるようになったのも「女性の会」の活動の成果です。

中間貯蔵施設、原発立地町としてリスクを引き受ける

 知り合った国会議員の仲立ちで、「女性の会」は当時原発担当大臣だった細野豪志氏に面会する機会を得ました。バスで上京した私たちは、「女性の会」として大臣に三つ要求をしました。「福島県民の医療費を無料にすること。被爆した子どもたちが将来にわたって差別されることがないよう被曝者手帳をつくり全員に配布すること。そして、中間貯蔵施設を大熊町に受け入れるかわりに私たちに移住すべき土地や家を補償してほしい」。私たちが中間貯蔵施設を受け入れるという決断までには「女性の会」のなかで議論、葛藤があったし、家族からも反問されました。放射性物質と同居したいと思う人はどこにもいない。でも私たちは「放射性物質を町の外に持っていけということはできない」と、原発立地町の当事者として結論を下したのです。これまで交付金で潤ってきた立地町がそのリスクは引き受けようという贖罪の気持もありました。あの日、東京から帰るバスの中で「女性の会」の仲間の携帯電話はコールが鳴りっぱなしでした。なんてことを言ってくれたんだという、町民や家族からの電話です。
 フクシマに対して国の政策はまだ何も形をなしていなかった頃です。中間貯蔵施設をどこにつくるかも決まってはいなかった。その後、中間貯蔵施設を大熊町につくることが決まったほかは、私たちの要求は何一つ叶えられませんでしたが、今でも、あの要求と決断は今も正しかったと思っています。

見せかけの復興より、民生支援にこそ金を使え

 見通しの立たない避難生活が続くなかで、「女性の会」のような自主的集まりが多くつくられましたが、ほとんどは自然消滅し、その後、補助金が付く形で県が主導する集まりがつくられるようになってきました。県内外の互いの安否確認や、町の状況の情報交換に、定期的に集りがもたれています。
 しかし、参加した人から聞く声は、もっぱら今の町と県の施政への疑問です。町からは復興に向けたプランや構想が語られ、参加者からそれに意見や疑問が出ても、それが町や県、国に反映されているという実感が誰にもないのです。「女性の会」にも補助金を使ってはいかがですか、という誘いはありましたが、私たちは断りました。
 帰りたいと言っていた人も年月が経つにつれて避難先に馴染み、避難先で仕事を得た親たち、子どもたちも避難先で教育を受け、友だちも出来ています。かつて自宅があった場所すら知らない世代も出てきました。そんな中で復興や帰還が語られても、7年前に大熊町に住んでいた人のうち、今はどれだけの人が帰還を望んでいるのか。
 復興庁が2015年に住民意向調査の結果を公表しています。大熊町で全世帯主を対象に実施され、その50%から回答を得たアンケート結果です。避難指示解除後に「戻らないと決めている(戻れないと考えている)」が63・5%、「戻りたいと考えている」が11・4%、「まだ判断がつかない」が17・3%です。50%という回答率を考えたら、「戻らないと決めている」世帯の比率はもっと高くなるはずです。「まだ判断できない」を加えたら、帰還しないと決めている世帯の割合は8割を超えます。住民登録している避難者のうち14%の人が帰還したとして約1500人。こんなありさまで描く復興ビジョンというのは何なのかそもそも疑問です。町や県、国の言う「復興」にみんな不信を抱いています。
 大熊町の面積の62%が帰還困難区域、15%が居住制限区域、18%が避難指示解除準備区域です。人口ベースでは96%が帰還困難区域です。このうちの居住制限区域の一角の大川原地区(39㌶)を町の復興拠点として整備する特定復興拠点区域復興再生計画が国に認定され、これによるインフラ整備の計画が進行中です。「大熊町 まち・ひと・しごと創生人口ビジョン」は「復興拠点(大川原地区)への3000人移住計画」として、「帰還する町民」約1000人、「町外からの住民」約2000人を見込んでいます。町外からの住民とは明らかに原発関係者や除染作業者、建設業関係者のことで、彼らが住民登録し納税する町民になるとは考えられません。この復興拠点整備の目玉とされているのが新庁舎建設で周辺の関連整備と合わせて平成29年度予算として31億円が計上され町議会にはかられました。
 私は一般質問で、新庁舎は今本当に必要なものなのかを町長に質しました。31億円には建設段階前の企画検討業務を含むゼネコンへの業務委託料も含まれています。こうした計画は、まずは行政が主体的に町民の声にふれながら構想していくべきことです。しかも、役場庁舎は竣工後一定年数は必ず役場として使用しなければならない制約があります。除染もいまだ不充分で、帰還する人も見込めない今の現状で、そんなことを今急いで決めなければならない理由はどこにも見当たりません。
 それよりも今、町が優先してすべきことは、民生の安定です。将来を見通せないでいる町民の生活再建を手助けし、充実した民生支援を通じて生きる希望を描くことこそ、町が担うべき仕事です。幸いというべきか、大熊町は原発に関連する交付金の蓄積があり、町予算は他と比べてもはるかに潤沢なのです。お金はそこにこそ投じられるべきで、使い道を間違えています。

原発依存に蝕まれ続けた町政の実態

 予想どおり、町長の答弁は私が納得できる誠実なものではありませんでした。
 私は議員活動の一つとして「ますみの空」というA4判両面の手作り機関誌を2カ月ごとに発行し、配っています。編集や割付は息子が手伝ってくれています。町のみんなの感想を聞き、意見を交わす大切なツールです。「ますみの空」第5号には、私の質問内容と渡辺町長の答弁をあわせて載せました。これを読んでくれた町民のなかから新庁舎が必要という声はありませんでした。
 こんな見せかけの「復興」が何故まかり通るのか。それを推し進めている根本は国と県です。そして、大熊町は長い間、原発(政策)に依存してきました。その病弊に町ごと蝕まれているのです。

戻るための要件に、実態はまだ遠い

 平成25年に想定された避難指示区域の解除見込み時期は、大熊町、双葉町は帰還困難区域以外も含めて事故後6年とされました。平成29年3月ですから事故後6年はとうに過ぎています。
 原子力災害対策本部が決めた避難指示解除に必要とされる要件は、①年間積算線量20㍉シーベルト以下、②日常生活に必須なライフライン、生活関連サービスのおおむね復旧、除染作業の十分な進捗、そして③県、市町村、住民との協議、となっています。
 現状はどうか。巨額の予算が投じられながら、これら要件が充分満たされるには至っていません。浜通り一帯、広い地域で除染作業がされてきましたが平地に限ってのことで周囲の里山、森は除染していません。チェルノブイリのように森の放射線量は高くなっています。森に住む動物たち、猪やアライグマは里に降りてきて住宅地を徘徊しています。彼らの体内汚染はおそらく高い数値を示すでしょう。通院が必要な歯科、耳鼻科、眼科などの医療機関も揃っていません。夜になれば暗闇に見える灯火はほんのわずかで治安も危ぶまれています。開校された学校でも生徒は増えていません。子どもたちは避難指示が解除された地域からではなく、バスをチャーターして避難先から通っています。

戻った人たちの真意を聞いてみた

 復興庁の2018年度東日本大震災復興特別会計歳出予算は1兆円を超える巨額です。これには特定復興再生拠点整備事業費、中間貯蔵施設整備事業なども入っています。これらの事業はこれまでの除染事業と同じでゼネコンを潤すだけです。中間貯蔵施設を抱える双葉町や大熊町には巨額の交付金・補助金が支出されていますが、被災者の生活再建には直接使えないため基金残高として毎年積み上げられています。その一方で、避難指示解除と一部帰還が始まっています。2016年「自主避難者」への住宅提供打ち切り、避難指示区域避難者への仮設住宅も打ち切り期限が示され、2018年3月で避難指示解除区域の精神的損害賠償も終わります。住宅提供の打ち切りは生活困窮者を生み出しています。お金の使い道は避難者の生活再建、民生支援に充てられるべきです。なのに、大熊町の予算計画にその発想はありません。
 では、帰還割合はどうなっているか。富岡町の2017年現在の帰還率は2・8%、浪江町は2・1%です。しかも帰還率の分母となる住民登録人口は減り続けています。避難指示解除が早かった楢葉町は36・3%の減で、つまり新住民となって町外転出した人たちが増えています。帰れないと思っている避難者に自己責任論で帰還を急かせるのは、棄民の加速にしかなりません。
 そんな中で、どんな気持で避難指示解除後の地域に住んでいるのか、帰還した人たちに話を聞いてまわりました。返ってきた答えは一様に同じです。「私たちはただ何も考えずに帰ってきた訳ではない。決意をしてここに来た。年をとってからはよその土地に容易には馴染めない。家が狭すぎて自分たちの居場所もない。それを若い人にぶつけたところで仕方がないから、窮屈に暮らすより震災前の自分の家、故郷で死にたい。それを若い人たちに強制はしたくない。だから、国も町も、帰ってきた私たちだけではなく、帰ってこれない人たちにも支援をしてくれないと困る。誰も好きで逃げたんじゃないから」。あまりに悲しい決意です。

「人間の復興」を求めて

 この先おそらく、双葉郡に多くの人は帰って来ないでしょう。代わりに、一時的な住民となって廃炉作業に従事する人たちの町になって行くのではないかと思っています。デブリ取り出しがいつになるのか、東電にはその見通しも立っていないし、安全な廃炉への道すじは見えていません。線量が高く危険な現場で働く、原発を渡り歩く労働者や外国人労働者がリクルートされ始めているという噂を聞きます。そんな危険な廃炉作業なら止めてほしい。そして人の命を踏みにじる原発はもう要りません。
 大熊町議員は12人、女性は私1人、原発反対を表明しているのも私1人です。正直言って嫌がらせもあります。私は被災地フクシマの現状を知ってもらうためお呼びがあれば各地どこでも報告しに行きます。東京の「たんぽぽ舎」に顔を出した翌日、町役場に行って「昨日東京でこんなことを話していたでしょ」などと言われ気味が悪い思いをしたこともあります。
 でも議員となって3年目、木幡ますみがいるからお手盛りではない議会が成り立っていることは誰も否定できないという声もあります。役場内で無視されても私は負けないし、私の主張に耳を傾ける職員もいます。任期を全うし、棄民の現実に抗いながら、「人間の復興」を求め続けます。
 (聞き手/文責:編集委員 高橋光利)

(注)「大熊町の明日を考える女性の会」は、メンバーの転居や年齢的な問題で集まりを続けることが困難となってきたことから、このたび久しぶりの会合を開き、話し合いの結果、解散することを決定しました。

(現代の理論2018春号)