【連載 かっこいいおんなになるために。】苦手な筋トレを継続する

松元 ちえ(ジャーナリスト)

 自慢ではないが、私は筋トレが苦手だ。
 そもそも私は一つのことを長く続けるということが苦手なため、フィットネスクラブに通ったことはあるが、ゆいいつ会員登録したときも2カ月しか続かなかった。それでも長い方で、自分でも驚いていた。それ以来、「運動しなくっちゃ」という強迫観念も手伝って、入り口まで行ってみたり、パンフレットを入手したりということは何度もやった。
 それなのに、次の一歩が踏み出せない。会員登録ができない。
 定期的に何かを長く続けるのが苦手な理由は忍耐がないことに限るが、そんな私でもゆいいつ地道に続けられている筋トレがある。
 それは、意識の筋トレだ。自分が持つ特権に気づき、周囲との関係性においての自分の立ち位置を把握する。特権性を多く持つ場合は、「上から目線の発言や提案になっていないか」「価値判断をしていないだろうか」と意識を覚まし、そうでない人との接し方に気を配る。
 なぜこの筋トレが必要なのかと言えば、なるべく平たい人間関係を築くことを目的としているからだ。だれもが同じように意見を述べ、参加者がみな納得できる着地点に落ち着けるように議論する。肩書きに「長」がつく人だけが発議し、一般的にマジョリティと言われる人たちがだらだらと説明を続け、最終的に〝えらい人〟が結論を出す――、といったような、会社内でも活動現場でもよく見られる、非民主的な意思決定のあり方から脱却するべきだと考えているからだ。
 言うが易し。「だれもが発言ができる」場や空間を作るためには、相当な筋トレが必要なのだ。残念ながら社会には、(意図的でなくてもそうであっても)差別する側と差別される側がある。マジョリティ性を多く持つ側とマイノリティ性を多く持つ側というときもあれば、男性と女性、それにセクシュアルマイノリティ(SOGI)、身体障害を持っていたり見えない障害を持っていたりする側もある。あるいは日本国籍を保有しているか、外国籍であるか。日本語話者かそれ以外の言語を話すのか。20代の学生もいれば、80歳以上の超高齢者もいる。学歴が高かったり低かったり、終身雇用制の正社員だったりパート労働者だったりもする。
 まずは自分の立場について考え、周囲との立場の違いを認識する。その上で、より立場が弱い被差別側が発言しやすく、その声を形にできる場と空間を作るにはどうしたらよいかを考える。
 人間は単一の属性だけで生きているわけではなく、ひとりが複数の属性を持つ。マイノリティ性を複合的に持つことを、いわゆる「インターセクショナリティ(交差性)」と呼び、最近ではこの概念は日本国内でも主流になりつつある。
 初めてこの概念に触れたとき、私自身にとっては大きな発見があった。一緒にワークをしていたグループのメンバーも同じだった。自分が常に「差別される側」であると思っていたのに、実は時として「(無意識であれ)差別する側」にもなりうることに気づいたからである。
 私は一見すれば女であるから(そう見られないときもあるが)、社会的にはその一面だけ見れば差別されることが多い方だ。しかし例えば、白人男性で英語話者の私の相方は国際的にはもっとも特権的な立場にあっても、何かと外国人差別が横行するこの国では、女性でも日本国籍かつ日本語話者である私の方がより特権的立場にあるのだ。
 これまで、特権から差別を考えるワークショップに複数回参加してきた中でいつも嬉しく思うのは、参加者のほとんどが自分の持つ特権にためらわず向き合うことだ。常に被差別側にあるという意識が強い人ほど、自分が特権的属性を持つことを知ってからの驚きが大きい。この現象の意味は深い。なぜか――。
 人は、自分が持っている特権には気づきづらい傾向があるからだ。特権が多ければ多いほど、それが作用して富や名声、物や情報にアクセスすることができる。不便さや問題に直面しても、それを解消する策も術もあり、「どうにもできない」という心配も少ないだろう。一般的に言えば、「環境に恵まれている」ということだ。一方で、特権がないことで生まれる生活の苦しさや不安は後を断たず、そこから抜け出す道も遠い。
 あくまで仮定として、人権活動をしている仲間の例を紹介したい。
 一人は、出自をもとに差別を経験している当事者で、日頃もそうした活動をしているが、実は自分には特権性が多く、そうした自分でも差別する側に立つということに気がついた。
 年齢も若く、健康な男性で正規公務員。安定的な収入もあり、妻と二人の子どもとで幸せな家庭を築いていた。さらに日本国籍で日本語話者でもある。ずっと差別されるばかりだという意識で活動を続けていたが、自分にはこんなに特権があったのか、とショックを受けていた。
 もう一人は高学歴の男性で、専任の大学教授。もちろん高収入。日本語以外にも外国語を話し、家族や親戚には弁護士や医師、大学教授ばかりがいた。こちらも子どもがいる幸せな家庭を持っていたが、持病があるという点がマイノリティ性だった。
 「重要な視点」「気づけてよかったね」などと話し合っていたものの、しばらくして再会したら後者の男性は、女性や若者を小間使いにするような「上から目線」で、自分自身は「えらいところ」に居座るままで、まったく変わっていなかった。
 「一緒に勉強したのに、どうしちゃったのか」と、私の方がショックだった。あくまで仮定。
 二人の違いは、意識の筋トレだった。
 いくらジェンダー平等や民主化を進めるための本を読んでも、ワークショップなどに参加して実践したり勉強したりしても、日々、筋トレに励まなければ筋肉が鍛えられるように意識も鍛えることはできない。
 もちろん、関心があるからこそ、ワークショップへの参加や様々なところで情報収集するわけで、そのこと自体が初めの一歩であることは間違いない。
 意識の筋トレは人と接するときがその機会となるため、私自身は嫌でも毎日これを続けることができている。実際やってみると身体の筋トレより難しいという印象だが、これによって、だれも虐げられず否定されない平等で民主的な人間関係が築かれ、特に特権を持ち合わせない仲間たちが元気になっていく姿を見る。そんな仲間が一人ずつ増えていくのが嬉しくて、それでもまだまだ鍛錬しなければと毎日終わりのない筋トレに励んでいる。
 読者のみなさんにも、ぜひお勧めしたい。

●まつもと・ちえ―――――
ジャーナリスト。英字紙記者、海外通信社で東京特派員として勤務したのち独立。上智大学や法政大学で非常勤講師、東京大学大学院情報学環学術支援員などを務め、メディア協同組合「アンフィルター(Unfiltered.coop)」を設立。共著に『失敗しないためのジェンダー表現ガイドブック』(小学館)、共同翻訳には「世界を動かす変革の力~ブラック・ライブズ・マター共同代表からのメッセージ」(明石書店)などがある。

(現代の理論 2024春号)

*アイキャッチ画像は Wikimedia Commons より
Author kaatsuucassiopeia
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