資本主義の未来を考える 帝国主義か公的コントロールか 蓄積停滞時代で迎える分岐点
松尾 匡(立命館大学教授)
■生産手段のリスクある蓄積の推進という存在合理性
資本主義に未来はあるかを考えるためには、資本主義の歴史的な存在合理性とは何だったのかを確認しなければならない。
資本主義が歴史的に果たした役割はいろいろあるだろうが、中でも、常に革新しながら人工の生産手段の蓄積を進めることによって、人間の生産力を高めてきたことは筆頭にあげられるだろう。
では、資本主義システムでなければこの役割を果たすことはできなかったのだろうか。
新しい生産手段の導入には不確実性がともなう。なので、失敗した場合、少なくとも蓄積生産手段のために割かれた資源が無駄になり、その分、人々の生活が犠牲になるリスクがある。現実にはそれだけではなくて、人身・人命の損害をかける等、さまざまなリスクがあるだろう。筆者は、『ケインズの逆襲 ハイエクの慧眼』(2014、PHP研究所)で、リスク・決定・責任が一致しなければ、システムが正常に機能しないことを論じた。これを使って考察してみよう。
■政治権力者は責任をとれないからリスク過剰に
中央集権的な指令経済の場合はどうなるだろうか。中央政府に蓄積決定が集中しているケースである。決定者が専制君主ならば、判断を間違えても責任をとらない。だとしたら過剰にリスクのある蓄積決定をする歯止めがない。「大躍進」の土法炉や密植・深耕はその一例かもしれない。
民主的政府の場合も、失敗したら辞めるだけであって、身銭を切って賠償するわけではない。全国の数多くのケースについて発生した損失に、すべて私費で賠償することはもとより不可能である。そもそも民主的体制ならば、賠償を政治家個人にさせて、富豪にしか政治家になれないような仕組みにするわけにはいかない。政治権力を利用した蓄財にインセンティブをつけるわけにもいかない。それゆえ結局賠償が行われても国費でなされるほかない。だから、やはり過剰にリスクのある決定をする偏向をさけられない。
よって政府に不確実な蓄積決定をさせるわけにはいかない。これは地方政府についても言える。
■生産手段私有でなければリスクが適正にならない
では、蓄積決定がもっと下位レベルの国営企業などに移るとどうなるか。成功しても、その成果を国が全部取っていくならば、わざわざリスクのあることをしようとはしなくなる。逆に、失敗しても自腹で責任をとらなくていいならば、リスクの高い蓄積決定に歯止めがなくなる。
それゆえ、結果が不確実な蓄積決定を、リスクをほどほどに管理しつつ促進するためには、成功した時の成果も、失敗した時の損失も、決定者自身に帰属させなければならない。そして、損失の責任を負わせる以上は、決定に外から口出しせず任せなければならない。これは、生産手段の私的所有ということにほかならない。こうしてこそ、リスク・決定・責任が一致する。
■従業者の集団所有ではリスクの合意ができない
では、生産手段が各企業単位の私的所有だとしても、従業者集団の所有で、彼らの民主的意思決定で蓄積を決めるのではどうだろうか。
革新的な生産手段蓄積というものは、未知のことなので、そこにあるリスクは確率分布自体が知られていない。それゆえ、人によってリスクの見積りが違っても調整する合理的根拠がない。
特に、その集団が、互いに特殊な技能を持った専門家に分かれて分業しているときはそうである。リスクの見積りにかかる情報をどれだけ持っているかが、専門によって異なる時、未知の革新的な生産手段蓄積のリスクの見積りを合意することは困難である。そして、なんとか合意をつけたとしても、結果として失敗した時、見積りの誤りを確定するのも困難で、責任が全員に拡散してしまう。他人のリスク見積りの誤りのせいで損をかぶる不満がつのる。
このようなことが続くと、自分の専門では見積もれないリスクのある蓄積に手を出すことは、互いに反対し合うようになるだろう。
■結局資本主義的生産になる
結局こうした場合、誰か私費で蓄積を行い、失敗したらその損をすべて自分でかぶる代わりに、決定権をすべて握ることを提案する者が現れた場合、メンバーたちはみなよろこんで決定を委ねることになるだろう。あるいはそのような競争相手が現れた場合、そちらの方が即断でどんどんと革新的蓄積を進め、従業者に決定権のある事業体は競争に負けて淘汰されてしまうだろう。
資金の提供者が決定権を握るならば、従業者に中途半端に決定権を残して、失敗の責任をシェアさせるよりは、従業者は決定に参加できない代わりに、そのリスクをかぶらず、一切の責任から免れる方が望ましいことになる。これは雇用労働者になるということである。資金の提供者が決定権を握り、従業者は決定権をもたない雇用労働者になるということは、この関係は名実ともに資本主義的生産関係ということである。
かくして、不確実性をともなう生産手段蓄積が促進される条件のもとでは、もっぱら資本主義的生産関係が存在合理性を持つことがわかった。
特に、蓄積が巨額になった前世紀以降は、私的信用創造が、旺盛な蓄積を支えた。私銀行が貸付によって、貸付先に預金通貨を作って蓄積資金とするのである。これによって余剰資金の制約なく、旺盛な資本蓄積が可能になった。蓄積が失敗するリスクは、貸付が返ってこないということによって、銀行がシェアすることになった。
■影響の大域的性格と決定の排他的形態の基本矛盾
しかし、だからと言って資本主義的生産関係が、リスク・決定・責任をきれいに一致させるわけではない。資本側の経営者が、蓄積判断を間違えた結果、経営状態が悪化し、賃下げや首切り、果ては倒産による失職というリスクが、決定から排除されているはずの労働者にかかってくるかもしれない。公害をもたらす生産手段を導入して、その決定には何も関与していない住民に健康被害のリスクをかけるかもしれない。それゆえ労働運動や住民運動が闘い、決定を握る資本側にリスクをとどめ、何かあったら資本側にきっちり責任をとらせることは合理的であるし、そのための法制度を整備することも重要である。
それでも、蓄積決定のもたらす影響すべての責任を、決定した資本側に帰属させることはできない。上記の労働運動や住民運動の例の場合も、自分達にふりかかった悪影響をこれらの運動ですべて補償・解消できる例はまれである。ましてや企業活動の結果地球の気候変動をもたらしているかもしれないが、その責任は特定の決定者に帰属させ得ない。不況下に設備投資を手控える行動を多くの経営者がとれば、それが合成されて不況が悪化して、多くの人々に負の影響を与えるが、やはり特定の決定者にその責任を帰属させることはできない等々。
エンゲルスは資本主義の基本矛盾として、「生産の社会的性格と所有の私的形態の矛盾」と言った。これは今日的には、多くの人々に大域的に影響を与えるリスクのある決定が、一部の人によって排他的になされていて、その影響の責任をとらないという「基本矛盾」であると解釈できる。これは今日ますます拡大していると言える。
このような「基本矛盾」にもかかわらず、不確実な蓄積の促進がまだ必要な条件のもとでは、資本主義的生産関係以上に、リスク・決定・責任を一致させる方法がないという意味で、それは存在合理性を持っていたと言える。しかし今日、不確実な蓄積がたくさんなされることが必要という条件が消失しつつある一方で、上記「基本矛盾」のスケールが拡大し、資本主義はむしろリスク・決定・責任を乖離させる側面が表に出るようになってきている。
■生産手段の蓄積が停滞するのが自然な時代
特に日本では、人口減少時代に入り、生産手段の蓄積が停滞するのが自然になった。なぜなら、もはや大衆消費財市場が成長し続けることはない。また、一旦完全雇用に至ると、もうそれ以上雇用を増やせないので、生産手段を拡大できない。それに、さまざまな産業が成熟してしまって、画期的な新産業が望めない。生産手段を蓄積しても、そこから得られる利潤はわずかしか期待できず、リスクの方が大きい時代になってしまった。
本来このことは、将来のために生産手段の蓄積に生産資源を割かなくてよくなり、これまで蓄積された膨大な生産能力を使って、生活に直接役立つ財やサービスを生産して、人々の生活が豊かになることを意味する。
しかし資本主義的生産ではそうはならない。そこでは、生産手段蓄積のための信用創造で購買力がつくられて、人々の所得と雇用に波及していく。それゆえ、生産手段蓄積が停滞すると、信用創造がなされず、人々の所得や雇用は低迷する。たくさんの失業が出てしまうことになる。
■信用創造がリスク・決定・責任を乖離させる時代
信用創造が生産手段蓄積のために使われなくなると、銀行は代わりに、投機のための貸付に信用創造を使うようになる。創造された預金通貨が土地や株に向かうと、その価格が上昇し、さらなる上昇を見越して投機が促進される。するとまた銀行は信用創造で貸付を行う。こうしてバブルが進行するが、いつまでも続くはずがなく、やがてバブルは崩壊し、投機の決定に何もかかわっていない多くの無関係の人々が、倒産や失業などの影響を受ける。
実際に投機の決定をしていたディーラーは、自分では借金したりせず、他人のお金で博打を打つので、成功したら報酬がもらえるのに、失敗しても身銭を切ることはない。当然、過剰にリスクの高い判断になる。
投機を扱ってきた金融機関としても、倒産したら経済全体への悪影響が大きいので政府が救済せざるを得ないことは最初から読める。だから過剰にリスクの高い決定を行うことになる。
すなわち、かつてはリスク・決定・責任を一致させる工夫であった信用創造が、逆にリスク・決定・責任を乖離させる仕組みになってしまったのである。
■企業の海外移転という解決
このような条件のもとで、日本資本主義が存続をかけて向かっている道が海外進出である。財界では「輸出で稼ぐ国から海外で稼ぐ国へ」の転換がスローガンになっている。まだまだ蓄積拡大の余地があり、利潤率も高い新興国などに移動して、生産手段の蓄積にはげむ路線である。とりわけて、安倍政権になってから東南アジアへの怒涛の進出が起こっている。
その結果、コロナ前までは海外からの利潤送金が年々増え続け、コロナ前の2019年で、経常収支19・3兆円に対して、海外進出企業からあがった利潤にあたる直接投資収益は11・2兆円、海外への証券投資の収益が9・7兆円となっている。コロナ禍後も大きな影響はなく、直接投資収益は10・7兆円、証券投資収益は八・五兆円となっている。
こうした状況を背景に、日本政府はアメリカが入らないTPP(環太平洋経済連携協定)を推進成立させた。そこで規定された、進出企業が現地政府を訴えることができるようにするISDS(投資家対国家の紛争解決)条項について、内閣府のホームページでは、「海外で活躍している日系企業が、進出先国の協定に反する規制やその運用により損害を被った際に、その投資を保護するために有効な手段の一つになる」と言っている。
また、日本がアセアンや中国、韓国などと作ったRCEP(地域的包括的経済連携)では、企業の進出先国が企業に技術移転を要求することは禁止する、企業の進出先国が本社に払うロイヤリティを規制することは禁止するといった投資保護規定を設けている。
昨年6月に「改正」された銀行法では、「海外で稼ぐ力」の強化と称して、日本の銀行が買収した外国金融機関の子会社は、従来と違い、そのまま保有していていいことになった。リース業や貸金業を主として営む外国会社の迅速な買収もできるようになった。
こうして東南アジアなどに企業を移してもうける一方で、国内では、ごく一部の先端分野や内外の富裕層向けビジネスのような高付加価値分野以外、労働の大半は貿易できないサービス業の非正規低賃金労働になる。先端分野のエリート的労働は、高度プロフェッショナル制度で残業代を出さずに国際競争力をつける。それ以外の旧来の業態は淘汰していくというのが、この間、進められた方針である。消費税の引き上げとコロナ禍は、この淘汰を推進するために役立った。
そして、割高な国内業者が死に絶えたあと、海外進出企業などから輸入した激安の生活物資で国内低賃金労働者を食べさせていけるように、円高を目指して、財政・金融の引き締めを志向するのである。
■独自の地域帝国主義体制への道
さらに、東南アジアなどへの進出企業を、テロや革命の脅威から実力で守るために、自衛隊の海外派兵の実績を作ってきたのだと言える。東南アジアは中国も進出先として狙っているので、当然、勢力圏争いになることを意識している。安倍政権のプーチン接近は、その際の北方の安全を意図したものと考えればつじつまが合う。
岸田政権は菅政権の国内更地化淘汰路線は軌道修正し、経済安保法を作って一部の「安全保障上重要」とする産業は国内回帰させようとしているが、それはこうした進出企業の実力保護体制の構築を意図したものと思われる。ウクライナ戦争で上記北方安全戦略が破綻し、いっそうこの体制の確立に前のめりになっているようである。
すなわち、対米従属下にあっても、相対的に自立した独自の地域帝国主義体制の確立である。この体制のもとで、くだんの「基本矛盾」は拡大し、庶民はあいかわらず苦しい日々が続くが、しかし、勢力圏下諸国で生産手段の蓄積が爆進することで、日本資本主義は強靭に持続するだろう。
■生産手段蓄積の公共的コントロールへ
この未来が嫌ならば、いつ来るかわからぬ「ハルマゲドン」を待つのではなくて、今すぐ資本主義そのものの変革の長い道に乗り出さなければならない。私有生産手段の蓄積が停滞して歴史的役割を終えた私的信用創造に代わって、公的に貨幣を作って公共の目的のために世の中に出す仕組みにする必要がある。
すなわち、労働者・人民大衆の政権を樹立して、民意に基づいて、総労働中労働配分が増えるべき分野への生産手段の蓄積と労働移動を促進するために、政府が作った貨幣を支出する。例えばケア部門や代替エネルギー開発や防災、防疫などである。逆に、労働配分が縮小するべき部門は、増税などによって退出を促す。そうすると、生産手段の蓄積は公的にコントロールされることになり、生産手段蓄積の私的決定に基づく資本主義的生産の性格が薄れていく。
私的蓄積衰退に合わせて停滞した私的信用創造に代わって、こうして政府が貨幣を創出して支出することによってはじめて、失業、倒産のないまっとうな景気が維持される。それは、労働者や従業者が自主管理する事業体が直面する不確実性を減らし、これらの試みが資本主義的に変質することを防いで、体制変革的取り組みとして発展していくことを助ける。
もちろん、一般的に蓄積が停滞する時代になったとしても、失敗のリスクのあるイノベーションがなくなるわけではないし、なくなるのが望ましいわけでもない。しかし、政府が作る貨幣を使う対象にするとリスクに歯止めがなくなるし、共同体的合意の対象にしたら合意がとれない。他方、現行システムのように、私的銀行家の排他的判断で作られる購買力でなされ、資源配分に影響を与える方式も、だんだんと抑制させていくべきだろう。
それゆえ、試みに意義を感じた個人が、自由意志と自己責任で出資、協力する仕組みが公的に整えられるべきである。政府が作る貨幣による、失敗オーライの公的開放的研究体制やセーフティネットの反緊縮的発展があれば、こうした試みに普通の個人でも乗り出せるようになっていくことが期待される。
松尾匡(まつおただす)
1964年石川県生まれ。金沢大学経済学部卒業、久留米大学教授を経て、2008年から立命館大学経済学部教授。専門は理論経済学。
(現代の理論2022夏号)


