死刑は廃止すべき、…なのだろうか 現代の非理論(3)

松本 仁一(ジャーナリスト・元朝日新聞編集委員)

 オウム真理教関係の死刑囚13人が2018年7月、ひとまとめで刑を執行された。国際社会から非難声明が出たりして、死刑の存廃について議論が高まっている。
 死刑は廃止すべきなのだろうか。廃止すべきであるとする意見の論拠について考えてみた。

《論拠1・国家権力が国民の生命を奪うなど、あってはならないことだ》

 おっと、この論拠は間違っている。「国家だからこそ死刑が許される」のだ。
 私が特派員として駐在していたエジプトでは、殺人に対する報復私刑が頻発していた。
 喧嘩などで一方が殺される。すると殺された側の一族が殺害者に報復する。その報復に対し、今度は相手側が報復する。報復合戦になるのである。政府の力が弱いナイル上流地域で多く、新聞によく報じられた。
 「お前たち、いいかげんにしろ。国家が犯人を捕まえ、死刑にしてやるから、自分たちで勝手に報復するな」
 国家が報復を代行することで、私刑による社会の混乱を防ぐ。死刑制度の大きな存在理由はそれなのだ。
 2003年、イラク戦争でフセイン独裁政権が崩壊したイラクでも、報復殺人が多発した。政府がなくなり、「報復代行」が行われなくなってしまったためである。
 無政府状態で略奪が横行していた。被害者が発砲し、略奪犯が殺される。すると略奪犯の一族が、発砲者に報復する。そんな連続だ。占領米軍が介入しなかったため、新政府ができるまで報復殺人は延々と繰り返された。
 「われわれ国家に任せておけ、お前は手を出すな」
 それこそが死刑の根本思想なのである。

《論拠2・死刑は犯罪抑止の効果を持たない》

 1999年に起きた光市母子殺害事件。強姦目的で女性の家に侵入した少年F(当時18)は、女性に抵抗されたため殺害し、死姦した。そのとき乳児(11カ月)が泣き叫んだため、床にたたきつけて殺したとされる。
 未決の段階でFは友人に「刑期は長くても8年ぐらい」という内容の手紙を出している。少年だから死刑判決はないと確信している内容だった。2012年に死刑が確定した。少年側は「殺意はなかった」と再審請求中だ。
 「少年だから死刑にはならない」――。その心理は「死刑になるのはいやだ」という気持ちの裏返しだ。となると抑止効果はあるということになる。
 「抑止効果がない」という論拠に、米国のケースがよく引用される。米国では死刑のある州とない州があるが、殺人事件の起きる率が高い州は死刑を実施している州である、したがって抑止効果はない、とする論拠だ。
 それはちょっと違う。死刑のある州の殺人事件の比率は、死刑がなかったらもっと高かったかもしれないのだ。比較するなら、同じ州で「死刑があったとき」と「死刑をなくしたとき」とを比べなければならない。
 フランスは1981年に死刑を廃止した。翌82年の殺人事件は1387件だった。ところが廃止後、年ごとに増え、92年には2702件と倍になっている。
 抑止効果があるかないか。世論調査を何回も繰り返し、殺人事件の犯罪者にもアンケートを実施するべきだ。そんな調査があれば、それは信頼できる。

《論拠3・遺族は報復を望んでいない》

 この論拠は、94年の松本サリン事件で妻を殺された河野義行さんが、死刑に反対であることなどを理由とする。
 しかし、光市母子殺害事件の遺族である夫の本村洋さんは「少年Fが出てきたら私が殺す」と明言している。
 遺族の反応はそれぞれに違うのだ。すべての遺族に意見を聞いて「死刑執行を望まない」という結果を得たなら、この論拠は正しい。しかし、一部の遺族の意見だけで結論を出すのは間違っている。
 遺族の気持ちをもとに死刑制度を考えるなら、こういうことではないだろうか。
 「死刑判決があっても、遺族が死刑を望まない場合は死刑を執行しない」
 死刑は制度として存続させ、運用で執行を回避する余地を残す。そういう方法もある、ということだ。

《論拠4・死刑制度があるのは、先進文明国では日本と米国ぐらいだ。死刑は野蛮な制度なのだ》

 EUは「死刑廃止」が加盟の条件となっている。米国で死刑を認める州でも、執行を停止しているところが多い。
 そんな趨勢の中で死刑を存続させているなんて、文明国として恥ずかしい――。
 しかし、ちょっと待ってほしい。犯人を逮捕せず、現場で殺してしまうケースが欧米では結構多いのだ。
 フランスで70年代、ジャック・メスリーヌ事件というのがあった。メスリーヌという人物が銀行強盗や殺人を重ね、捕まって刑務所に入れられては脱獄を繰り返す。公判中にピストルで裁判官を人質に取って脱走したこともある。「社会の敵ナンバーワン」と呼ばれた。
 79年、警察はメスリーヌが愛人の家にいることを突き止めた。彼が愛人と車で外出するのを待ち、武装警官満載の幌付きトラックで前後をはさむ。信号で停車したのを合図に一斉射撃。メスリーヌはハチの巣になった。
 仏警察は、容易に逮捕できたのに殺害したのである。
 米国では2015年、警官が犯罪容疑者を射殺したケースが、ワシントンポスト紙によると986件に上る。
 日本では熊本で今年5月、刃物で警官を襲って馬乗りになった男を、襲われた警官が射殺した。警官が発砲したケースは多いが、射殺したのは5年間でこの件くらいだ。
 人質事件などでも、日本ではすぐ突入せず、時間をかけて説得を続けることが多い。「殺さずに捕まえて、とにかく裁判にかける」という風土があるのだとすれば、その方が文明的にははるかに高度な社会である。

《論拠5・冤罪で死刑になったら取り返しがつかない》

 これこそ死刑制度の最大の問題だと思う。冤罪事件は多いし、再審開始は狭き門なのだ。
 しかしこの論拠だと、逆に「冤罪でなければ死刑にしていい」という論理になるのではないか。
 大阪・池田小学校の児童殺傷犯である宅間守は現行犯逮捕で、冤罪の余地はなかった。遺族の多くは極刑を望んでいた。本人は「早く死刑にしてくれ」として上告しなかった。一審の死刑判決が確定し、確定後1年という記録的スピードで執行された。
 「自供を主体とした起訴では死刑判決を下さない」とか「死刑事案では証拠採用を厳格にする」というような基準をつくれば、この問題はクリアされると思う。

《論拠6・問題は政府の態度にある》

 これはまったく同感だ。国家が与える刑罰の最も重いのが死刑だが、その情報がまったく出てこない。「見せない・知らせない・会わせない」なのである。
 死刑が確定してしまうと、家族・弁護士以外は面会もできない。死刑囚がどんな暮らしをし、どんな本を読み、何を考えているか、まったく分からないのだ。どんなふうに執行されるかも明らかにされていない。
 明治の昔からそうだったわけではない。
 戦後すぐの「免田事件」で再審無罪となった免田栄・元死刑囚のころは、死刑囚同士が野球をやっていた。面会の条件もかなりゆるかった。わりとオープンな状態だったといえる。それがいつのまにか、閉鎖的になってしまった。
 政府は、死刑という制度を大衆から切り離し、国家の所有物として「開かずの箱」に入れておこうとしているのではないか。主権者である国民には何も知らせずに。
 だとしたらそれは問題だ。死刑制度を見直すためにも、制度をもっと開かれた状態に置くべきだ。死刑囚へのアンケートとか研究者による接見などがやりやすいように。
 映画監督の森達也さんは「死刑」という本の中で、廃止・存続両派の理論についてこう書いている。
 「支持するかしないかでまずは身体的反応がある。あとはそこに後付けの論理を加える。ずっと水掛け論が続くの 当たり前だ」
 私もそんな気がする。存廃を議論するなら、理論はきちんと検証されたものであってほしい。結論に都合のいい論拠を並べ立てるのでは、双方が感情的になるだけである。
 もう一つ。存続だからウヨクだ、廃止だからサヨクだ、などの決めつけは止そう。それでは議論にすらならない。

 ■まつもと・じんいち
 ジャーナリスト、元朝日新聞編集委員。 1942年長野県生まれ。68年朝日新聞社入社。ナイロビ支局長、中東アフリカ総局長(カイロ)などを経て編集委員。2008年に退社後はフリージャーナリストとして活動。中東報道でボーン上田国際記者賞、連載「アフリカで寝る」で日本エッセイストクラブ賞、「カラシニコフ」で日本記者クラブ賞、「プロメテウスの罠」で新聞協会賞などを受賞。著書に『アフリカ・レポート』(岩波新書)『カラシニコフ』(朝日文庫)『アフリカを食べる・アフリカで寝る』(同)などがある。  

(現代の理論2018秋号)