徳義と公共の民主主義へ 安倍政治終焉に対する政治革新のための新理念

小林 正弥(千葉大学教授)

 安倍政治の終焉とその淵源

 裏金問題で、日本政治は大きな動乱期に入った。自民党の6派閥の中で、裏金問題によって関係者が立件された安倍派・二階派・岸田派が解散を決め、続いて森山派や谷垣グループも解散を決定した。特に、最大派閥だった安倍派は、いわゆる安倍派5幹部が失脚し、閣僚や政務官の辞任、国会議員・政策秘書の逮捕に続いて、派閥そのものを解散せざるを得なくなり、もはや見る影もない。派閥内部からも幹部は責任を問われ、現在は幹部たちが政治倫理審査会への出席を求められて、非公開を要求して開催が延期された末に、岸田首相の出席によって、安倍派・二階派5人の公開の審査が行われることになった(2月29日、3月1日)。
 直接には裏金問題の露呈が原因だが、その淵源は、もっと深い。安倍政権時の2020年に、検察官の定年延長を可能にする検察庁法改正案を国会で審議入りさせ、検察人事を歪めようとして、三権分立を危機に陥らせたが、人々の反対によって断念に追い込まれた。安倍政権は、憲法と国会を蔑ろにして、実際には違憲の法律や決定を閣議決定や強行採決によって次々と横暴に強行したが、この断念は、良識ある人々の抵抗が成功した数少ない例の一つである。その反動として、虐げられた検察が裏金問題を機に逆襲したという観測がなされている。
 さらに、裏金問題は、政治家や派閥が公的な法規に反して政治資金を私的に用いたということを意味する。これは、森友学園問題、加計学園事件、桜を見る会などに現れていた公私混同や不法な権力行使と通底する。よって、裏金問題は偶然ではなく、権勢を誇った派閥における政治腐敗の表れなのである。
 そして、時は円安が昂進し、日銀に金融超緩和政策の転換が求められている最中である。これは、アベノミクスによる株価上昇がいわば幻想経済に他ならないことを表している。一般国民の暮らしは厳しくなる一方なのである。
 つまり、安倍政治はことごとく失敗したことが明らかになりつつあり、その中で、権力の専横と、三権分立の浸食、憲法や法律の侵害などが直接の原因となって、派閥が解体に追い込まれるに至った。よって、現在の日本政治の混乱の主因は安倍政治にあり、その終焉を意味している。

権威主義化の失敗と民主主義再建の可能性

 まさに独裁的な権力の奢りが安倍派の解体を招いたわけだ。平家物語にいう「盛者必衰…驕れる人も久しからず」という文句のように、権勢を極めた安倍派の消滅は感慨をもたらすものの、上述の原因がある以上、政治の理念に照らせば同情には値しない。安倍政治こそ、日本政治に専制化をもたらしたものだからである。それは、2015年の安保法制によって法的「クーデター」を起こして平和憲法に実質的なとどめをさし、民主主義を形骸化させて、日本を競争的権威主義へと移行させつつあった。筆者は、安保法制以後の日本政治について、日本に新権威主義体制への政治体制の移行の危険が現れていると警鐘を鳴らしてきた。
 2020年の安倍政権崩壊によってこの体制移行は止まり、いわば崖っぷちで民主主義体制は辛うじて崩落を免れた。その後も、菅政権においては、小休止状態だったが、岸田政権下における安倍氏銃撃事件によって統一教会との密接な関係が露呈してから民主主義崩壊の過程は縮小し始め、今回の裏金事件で一旦はその危険が去ったと言えよう。
 もちろん軍事化は続いていて非民主主義化の危険も消滅していないし、民主的運動の高揚によって安倍政治が瓦解したわけではないから、民主主義の勝利と単純に喜べるわけではない。それでも、専制化が一時的なりとも中断したことの意味は極めて大きい。権力的な抑圧や弾圧の危険は減ったから、民主主義が甦る可能性が現れたからである。
 とはいえ、民主主義再生のためには、与党の混乱だけではなく、野党の上昇と、政権交代や政治の革新が必要だ。いま、岸田政権は、支持率21%、不支持率65%(2月17日~18日、朝日新聞)と低支持率に陥っており、自民党支持率も21%と自民党の政権復帰から過去最低となっている。従来の自民党だったら、政権批判が党内でも高まって政権が終焉しても不思議はない状況だ。ところが、自民党の多くの派閥が裏金問題で解散したり、有力政治家の多くが政治的な勢いを失っていて、政権自体はなお存続している。
 それでも、野党はそれほど支持率が伸びていない。このため、政治的変化のダイナミズムが生じていないのである。

立憲野党再生への道

 その最大の理由は、立憲民主党の低迷にある。自民党の支持率が大きく低下しているのに、立憲民主党の支持率がさほどあがらないのでは、方針に根本的な問題があるといわざるを得ない。筆者は、2021年10月の衆議院選挙の後、そして2022年7月の参議院選挙の後に本誌に寄稿し(2022冬号、2022秋号)、この政党の選挙での相次ぐ敗因として理念の希薄化を指摘し、対抗軸を作るために新しい政治哲学が必要だ、と主張した。安倍氏銃撃事件後には、「安倍政治と立憲政治の双方が挫折して、政治的対立の両極が混迷し、日本政治は流動化と混沌を迎えている」と書いたが、上述のように安倍政治の終焉により自民党は激しい流動化現象に陥った。右翼の側では日本維新の会が立憲民主党より支持率が高い時期があったが、大阪万博の混乱や相次ぐ議員の不祥事などで勢いが落ち、立憲民主党よりも支持率が低くなった。また、左翼の側でも共産党は、代表が交代し、その過程で民主集中制の問題が浮上して、相当の変化が生じている。ところが、立憲民主党に関しては、大きな変化も、刷新への取り組みも伝わってこない。だから、期待がさほど上がらないのも当然だ。ただ、次の国政選挙までには若干の時間がありそうだから、それまでに新機軸を打ち出せば、低迷から脱出する可能性があるかもしれない。そのための提言を行ってみよう。
 理念の希薄化が支持率低下の根本原因ならば、再び理念を明確にすることが必要だ。ここでこの政党にとって得がたい可能性がある。そもそもこの政党が結成された(2019年)のは、希望の党への反発からであり、さらに安倍政治に対して、憲政を擁護する対抗政党として、熱い支持が集まった。それゆえに立憲主義が根本的な理念となり党名になった。つまり、この政党は憲法を蔑ろにする強権への抵抗というネガティブな理念によって形成されていた。
 この理念が希薄化したのは、状況が変化するとともに、2020年の国民民主党との合流により中道的な議員が増えたからであり、希望の党や国民民主党にいた泉健太代表はそうした潮流に属している。だから、政権批判が生ぬるく、熱い支持が減少したわけである。
 安倍政治の問題が明らかになって安倍派が解体にまで至ったということは、この政党の主張に妥当性があったということを示している。安倍派中心の自民党政治全体に国民は疑問を感じるようになり、民主党政権時代の方がよかったのではないかという声も聞かれ始めたほどだ。
 けれども、勢いが低下しているが故に、強権政治によって憲法や法律を侵犯して権利を侵害するという強硬姿勢を政権は取りにくくなっている。それゆえ現時点では、強権への抵抗という理念は人々へと訴える力が弱まっている。これはアジェンダではないからだ。
 それゆえ、裏金政治という最大のアジェンダを中心にして政党の理念やイメージをリニューアルし、安倍政治批判の焦点を政治腐敗批判へと置き換え、それに代わってクリーンな政治への刷新というポジティブな理念を中心に据えることが望ましい。自民党で表面的に派閥が解体されても、派閥の流動化や再編に帰する可能性が高く、いずれ復活して政治腐敗問題が再現されることは、リクルート事件(昭和63年)の後や、野党転落時(平成6年)の派閥解散ないし解消の宣言を振り返れば、明らかだろう。このような糊塗策に代わる、抜本的な政治的刷新が野党の中心的理念として掲げられることを国民は求めている。
 この際、平和主義的理念はとりあえず穏健に主張することもやむを得ない。自民党から離反した支持者は、政策の選好においては立憲民主党の元来の平和主義的志向とは距離があることが多いからだ。このようなアジェンダ設定は、現執行部にとっては難しいことではない。逆に安全保障問題や憲法問題を主軸にすることは中道指向の強い現路線には難しいはずだ。わかりやすく言えば、この外交路線は、解散した宏池会の元来の保守本流路線に近いだろう。
 他方で、クリーンな政治の主張は、中道的政治路線とも両立する。平和主義的争点よりも、政治腐敗批判と政治的浄化、さらに経済政策批判に力点を置くことはすぐにも可能であり、現局面ではその方が支持率の回復に役立つだろう。望むらくは、この局面では穏健中道路線を主軸とする政治的浄化の訴えで党勢の拡大を実現し、次の段階で平和主義も含めた理念の再興が可能になることを願いたい。

政治的浄化による徳義の政治

 このために、政治哲学の観点からは、コミュニタリアニズムに目を向けることを勧めたい。権力による法律や権利の侵害というネガティブな現象の阻止に焦点を当てるのが、リベラリズムの主眼だ。立憲民主党の起点はここにあり、思想的にはリベラリズムの傾向が強かった。これに対して、権利の重要性は前提にしつつ、道徳的な善や人々の共通の関心・目的を重視して共通の善を実現しようとするのがコミュニタリアニズム(徳義共生主義)である。
 この思想の一つの核心が「善」である。つまり、善き生き方や美徳をはじめとする倫理性だ。政治的領域においては政治倫理が重要なのである。この点が、道徳的な問題を脇に置くリベラリズムとの最大の相違である。
 裏金問題を考えれば、コミュニタリアニズムの力点である道徳性・倫理性が政治的焦点となっていることは明らかだ。よって、コミュニタリアニズムの思想を本格的に導入して、それを軸に理念を刷新することが時代の要請に合致している。リベラリズムのみを軸に理念を形成すれば、どうしても憲法・法律・権利の擁護に力点が置かれて道徳的・倫理的問題は脇に置かれるから、政治腐敗批判や政治的浄化の訴えに力がこもらなくなる。もちろん、今の局面では裏金政治批判をするに違いないが、法的違反を咎める論理になりがちである。それを超えて、積極的に政治的ビジョンを打ち出すためには、道徳的・倫理的理想も説くことが必要であり、そのためには党の理念を刷新する必要がある。もちろん、憲法・法律の順守や自由の擁護は重要だから、それを軽視するのではなく、それとともにポジティブな精神的理念を主張するのである。学問的には、法的順守はリベラルの、そして倫理的理念はコミュニタリアニズムの中核的主張だから、この双方を併せ持つ思想をリベラル・コミュニタリアニズムと呼ぶこともある。

「公共の理念」の再建

 コミュニタリアニズムのもう一つの眼目が「共」である。今の日本における貧富の差の拡大は「共生」の理想に反する。思想的には、このような経済的問題はリバタリアニズム(市場原理主義)ないしネオ・リベラリズムにおける市場最優先思想のもたらした現象であり、規制緩和・民営化・自己責任論などの潮流がこれに相当する。さらにアベノミクスにおける超金融緩和路線が貧富の差を拡大させ、円安をもたらした。これに対して、リベラリズムは「福祉の権利」という観点から弱者の救済を主張するし、コミュニタリアニズムは「共生」の観点からコミュニティの同胞に対する福祉を主張する。この論点は、今日の局面においても野党は積極的に主張すべきだろう。
 ただ、この論点においても、リベラリズムとコミュニタリアニズムの論理は分岐する。同じように福祉を主張しても、前者は権利の論理によっているのに対し、後者は「共生」における相互扶助が「善き生き方」という価値観・世界観において正しいという論理に立脚している。
 この「共」という理念は、「公共」の理念とも密接に関連している。民主党政権時代に「新しい公共」が主張されたが、それは主として、国家中心の「古い公共」に対して、NGOやNPOなどの中間結社の重要性に力点があった。ところが、この理念は、立憲民主党になってから、あまり用いられていない。リベラリズムは国家に対して個人の権利を守ることに力点があるから、「国家/個人」という二項対立の図式が中心になり、その二つを媒介する中間結社にはあまり焦点があわないのである。
 このような「公共」理念の減衰の結果、今日の最大問題である裏金問題や、安倍政治における権力による公共性の侵害や公私混同問題に対しても、法的侵犯という観点からの批判となり、「公共性」の回復というポジティブな理想はさほど力強く説かれなくなってしまう。
 ところが、今日、もっとも人々にわかりやすく、かつアピールするのはまさに政治資金などに関する、自民党による「公共性」の侵害と「私的流用」の批判だろう。裏金問題の最中に確定申告の時期が始まり、会場で「納税がばからしくなる」というような声が聞かれるのは、徴税がまさに「公的」な機能を持つ行為の典型だからだ。この「公性」は、中間集団の「公共性」とは違い、まさに国家自体の「公」的機関における「公共性」に関わる。国家における「公私」の分離が近代国家の起点だから、この「公性」の衰弱は、日本が前近代的な「家産国家」へと後退し始めたことを意味している。そこで、民主党時代に強調された「新しい公共」に加えて、「公」である国家自体の「公共性」の復活が、ポジティブな理念として再提起されることを望みたい。このような「公共」の理念は、思想的には「共和主義」に見られるものである。共和主義には幾つかの類型があるが、ここで述べているのは、人々が公民的な美徳をもって政治に参加することによって自己統治を行うという理想である(コミュニタリアニズム的共和主義)。
 このように立憲野党には、人権・自由のみに力点を置くリベラリズムから、徳義や公共も理念として加えるリベラル・コミュニタリアニズムへと思想的に進化することを望みたい。「立憲民主」という党名がリベラルな法的順守を強調しているのに対し、「徳義民主」がコミュニタリアニズム、「公共民主」がコミュニタリアニズム的共和主義に対応する。これらをあわせれば、「立憲徳義民主」とか「立憲公共民主」とでもいうことになろう。

 「政治改善」を訴える「公共的野党連合」を

 上記の2拙稿では現在の選挙制度のもとでは、与党に勝利するためには野党連合ないし野党の選挙協力が不可欠だと主張した。この点はまったく今でも変わりない。民主集中制批判とは別に、近時の共産党の野党共闘への貢献自体は、日本政治全体への貢献という観点から筆者は高く評価している。そして、共産党の野党連合への協力は、今でも可能に思える。
 野党連合を構成する際の最大の問題は、何を共通政策として結集するかということである。かつて筆者は「平和への結集」という概念で平和主義を中心にする野党連合を主張した。しかし、上記の理由によって、現在は平和主義や立憲主義で結集を構想するよりも、「徳義」や「公共」の理念のもとで、政治腐敗を批判してそれに代わる政治的浄化を訴えることが結集軸として有効だろう。
 日本政治において、政治腐敗問題が時の焦点になった時に叫ばれたのは、「政治改革」という標語だった。ところが、この言葉が1994年には選挙制度改革という意味となり、二大政党制による政権交代が追求された。ところが、今の日本政治はこの方式が失敗したことを表している。民主党は後退し、権力を掌握した自民党が肥大化した結果、自浄作用が働かなくなり、岸田政権の支持率がかくまで低下しても、党内から明確な批判が現れてこない。この結果、日本政治は巨大な停滞に陥ってしまっているのである。
 よって、いま追求されるべき政治の改革は、かつての「政治改革」のように選挙制度改革のような機構論や制度論に終始すべきではない。その中心軸は、まさしく倫理的・精神的な政治的改善でなければならない。「政治改革」という標語の代わりに、「政治革新」や「政治刷新」、さらには「善」の理念を用いて「政治改善」とでも呼んだらどうだろうか。この過程の中で、失敗した「政治改革」である小選挙区中心の選挙制度を反省し、むしろ中選挙区制か、比例代表中心の制度に移行することも検討されるべきだろう。
 もちろん、結集においては経済政策もある程度は不可欠だ。アベノミクス批判と、分配や報酬における正義や公正を実現する経済再生策が望ましい。こういったアジェンダを主軸にして、次の国政選挙までに「公共的野党連合」が構築され、腐敗した自民党政治に代わって新しい日本政治を切り開いていくことを期待したい。

(現代の理論 2024春号)