左翼・右翼・信義 現代の非理論(1)

松本 仁一(ジャーナリスト・前朝日新聞編集委員)

 2004年6月、雑誌『現代の理論』第3次復刊の復刊準備号が刊行された。各方面からの「創刊に寄せて」の文章が掲載されたが、当時、新聞社に在職していた私も短文を書かされた。以下、その文章を再録させていただく。(一部略)

仁兵衛流「非理論」で行きませんか

 中東特派員時代の1992年、カイロの支局に安東仁兵衛さんから「君の記事は悪意と偏見に満ちている」という非難の手紙が届いたことがある。
 「民族解放戦線」(FLN)の社会主義一党支配が続いていたアルジェリアでは91年暮れ、初の複数政党選挙が行われた。そこでイスラム原理主義派が8割の支持を獲得してしまった。「憲法を廃止してすべてをコーランに」「女はベールをかぶれ」といったスローガンを、大衆が支持したのである。
 原因は明白だった。FLN政権の腐敗で経済は崩壊していた。失業率は6割に達し、希望を失った大衆の間に強い不満が渦巻いていた。FLNを激しく攻撃する原理主義派に、大衆の不満票が一気に流れたのである。
 仁兵衛さんの非難は、そうした私の記事に関するものだった。
 「君はFLNを不当におとしめている。FLNは『アルジェの戦い』を革命的に闘い抜いた組織だ。そんな彼らがわいろを取ったりするはずがないではないか」……
 どんな権力でも長期にわたれば腐敗する。ベトナムでもアンゴラでも同じことが起きていた。仁兵衛さんが知らないはずはない。むしろ私が感動したのは、FLNの腐敗にショックを受けた仁兵衛さんが、私に八つ当たりするためわざわざ手紙を書き、郵便局に行ってエジプトまでの切手を買い、なめて貼って投函したという事実である。
 大学時代、神田の『現代の理論』編集部に友人の上間常道君がおり、よく遊びに寄った。それで仁兵衛さんの謦咳に接する機会を得た。『現代の理論』との関係はそれだけである。そんな私に仁兵衛さんは「おい、組織に入れ。推薦人が2人必要なんだが、オレが何とかするからよ」などとささやいてくれた。理論抜きのそんな人間くささ、浪花節っぽさが、社会主義とは縁のない私を『現理』ファンにした大きな理由だった。
 社会運動に理論などあり得ないと私は思っている。運動を支えるのは信頼であり、人間関係であり、仁義である。アフリカでも、中東でもそうだった。『現代の理論』復刊はめでたいことだが、いつの日か名前を『現代の非理論』に変えてほしいと願っている。

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 ここで私がいいたかったのは、理論だけで世の中は動かない、運動でもっとも大切なのは人間と人間の信頼関係だ、ということだった。それがこの欄のタイトルを「現代の非理論」とさせていただいた理由である。そう考えるようになったきっかけは、以下のような事件があったからだ。
 1971年8月21日、埼玉県の自衛隊朝霞駐屯地で、警邏の自衛隊員が殺されるという事件が起きた。現場に「赤衛軍」と書かれたヘルメットやビラが残されており、「赤衛軍事件」として騒がれたから、覚えている方は多いだろう。
 私は当時、朝日新聞浦和支局のサツ回りをしており、事件をもろに担当した。
 11月、実行犯の菊井良治という学生が逮捕された。いかがわしい男だった。映画評論家の川本三郎は当時、朝日ジャーナル誌の記者で、菊井と接触し証拠品を預かって逮捕される。朝日新聞社が初めて警察の家宅捜索を受けることになる事件でもあった。その菊井の供述から翌72年1月、京都大学助手の滝田修が殺人の共謀共同正犯で指名手配された。滝田は新左翼の理論指導家として活躍していた。滝田を追ったドキュメント映画『パルチザン前史』」は、左派学生の間で圧倒的な評価を集めるほどだった。
 滝田の具体的な容疑は、菊井が犯行計画を滝田に明かし、滝田が「それはいい、やれ」といったというものだった。殺人の共謀どころか、教唆もやっとという程度の弱い容疑だ。逮捕されても裁判で自分の主張を訴えた方が得、と多くの関係者は考えた。にもかかわらず、滝田は地下に潜行してしまったのである。それから彼は、市民活動団体や反戦運動家などの間を転々と逃げ回った。
 捜査本部が置かれた埼玉県警の公安部門の責任者は赤塚普知雄警備部長だった。警察庁時代、連合赤軍の大菩薩事件の捜査を指揮した実力者だ。特捜班長は埼玉大学内ゲバ事件を担当した高橋孝人警部。このコンビにとって、滝田の足取りを追うなどたやすいことだった。警察は、ほぼ1月遅れで着実に滝田の潜伏先をたどっていく。
 滝田をかくまった市民組織を支えていたのは、学校の教師や市役所の職員だった。そういう人たちが警察に逮捕されて持ちこたえるのは難しい。組織の名簿が押収され、次の立ち回り先をしゃべらされた。市民組織は次々に捜索を受け、壊滅していく。まるで滝田は、市民組織つぶしのために逃げ回っているような感さえあった。
 原爆図で有名な丸木位里・俊夫妻宅も捜索された。映画『パルチザン前史』の土本典昭監督は2度も家宅捜索を受け、そのたびに名刺を押収されている。捜査員からは「松本さんの名刺もあったぜ」などと冷やかされた。捜査本部は余裕たっぷりだった。
 ところがある日、その警察が色を失った。滝田を追って青木周という人物にたどり着いたときのことだ。当時の捜査員によると、青木はこういったという。
 「たしかにこの写真に似た男をしばらく泊めた。親しい友人から頼まれたからだ」
 「しかしその男が誰か、次にどこに行ったのか、私は知らない。友人から、その男については何も聞かないでくれといわれたので、何も聞いていない」
 青木はそれ以上なにも語らなかった。滝田の足取りはそこで切れてしまう。滝田が逮捕されたのは、それから10年後の1982年だった。
 青木周は名の通った右翼だった。元裁判官の青木英五郎の甥にあたる。青木英五郎は1952年、夫婦強盗殺人の「八海事件」で最高裁が無罪判決を差し戻したことに怒り、裁判官をやめてみずから事件の弁護人になってしまったという硬骨の法律家だ。その甥の右翼活動家が、警察から手配されている左翼活動家をかくまい通したのである。
 社会活動をしていたら、いつ警察の捜査対象にならないともかぎらない。そのとき、警察の前でかんたんにしゃべってしまう左翼と、友人との信義を守り通す右翼。あなたならどちらを信頼するだろうか。……とまあ、そんな思いがあって再刊準備号の文章を書いたのである。文章の評判はさんざんだったが。

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 特派員として計10年近くを中東やアフリカで過ごした。その間、理論を前面に押し立てながら陰で背信を繰り返す人々をしょっちゅう見てきた。
 南アフリカ共和国で黒人解放運動「アフリカ民族会議」(ANC)の指導者だった人物が、新政権ができると同時に白人居住地区の豪邸に移り住み、わいろを取り始めた。その人物は私に、マンデラ大統領にインタビューさせてやるからと2000㌦を要求した。
 ANC青年婦人部長だったマンデラ元夫人のウィニーは、ダイヤを買うためにチャーター機でアンゴラに飛び、チャーター代金を踏み倒した。
 ジンバブエでは、社会主義政権を打ち立てたムガベ大統領がわいろを取りまくった。腐敗を批判されると、責任を白人の大土地所有のせいだとし、白人農場を接収した。そのため農業で支えられていた経済は崩壊し、200万人といわれる農場労働者が職を失った。
 それを批判する記事を書いたら、国内の左派活動家から「真の黒人解放のためには、あるていど過激なやり方も必要なのだ」といわれた。その活動家は、ムガベ政権の下でどれだけの黒人住民が食うや食わずの目に会わされているか、何も知らなかった。
 理論は問題のありかを分かりやすく示してくれる。しかし往々にして真の問題を覆い隠す役割も演ずる。運動にとって本当に重要なのは、理論のシャープさよりも、人からの信頼をどれだけ大事にするかだと私は思う。人との信義を黙って守る、そんな鈍重なまでの誠実さ。それこそが必要なのではないだろうか。
 ところで、赤衛軍事件。私も捜査線上にあったということを、つい最近、当時の捜査関係者から聞かされた。滝田の逃走幇助の容疑だというが、まったく心当たりはない。警察の調べを受けただれかが、苦し紛れに私の名前を出していたらしい。やれやれ。 

 まつもと・じんいち
 ジャーナリスト、元朝日新聞編集委員。 1942年長野県生まれ。68年朝日新聞社入社。ナイロビ支局長、中東アフリカ総局長(カイロ)などを経て編集委員。2008年に退社後はフリージャーナリストとして活動。中東報道でボーン上田国際記者賞、連載「アフリカで寝る」で日本エッセイストクラブ賞、「カラシニコフ」で日本記者クラブ賞、「プロメテウスの罠」で新聞協会賞などを受賞。著書に『アフリカ・レポート』(岩波新書)『カラシニコフ』(朝日文庫)『アフリカを食べる・アフリカで寝る』(同)などがある。 

(現代の理論 2018春号)