大陸侵略の「鬼胎」論を問い直す時代へ (2018年冬)

明治維新から150年 日本の近代を問い直す

古川 純(本誌編集委員)

最近の様々な動き―文化の日を「明治の日」へ

 2018年は年表では明治維新(1868年)から150年にあたる年である。それを控えて最近、様々な動きが出てきた。明治天皇誕生日の11月3日(現在は文化の日)を「明治の日」とする運動を進めている「明治の日推進協議会」は記念シンポジウムを開き(10月29日)、主催者は「150年にあたり、明治の意義を再確認したい。そうなれば11月3日がどんな日なのか、思いをいたしていただける」と挨拶した。主催団体はかつての昭和天皇誕生日=4月29日を「昭和の日」とする運動を行って政府に実現させた人々の流れをくむものとのことである(朝日新聞、2017年11月20日夕刊)。1968年の「明治維新100年」には佐藤栄作内閣による記念式典があり(10月23日)、国営武蔵丘丘陵森林公園や歴史民俗博物館の整備などの記念事業が行われた。それに先立って1966年、歴史学界や市民団体の反対を押し切って「建国記念の日」(神話に基づく2月11日=旧「紀元節」)を制定し祝日とした。2018年に先だっていま何が進んでいるのか。
 靖國神社への新たな合祀申し入れである。靖國は明治維新で朝廷側で戦った戦没者の顕彰・追悼施設であるから、維新戦争で官軍と戦った「賊軍」戦没者・処刑者(新撰組、会津・白虎隊など)や維新後に西郷隆盛など政府軍と戦った人物たちは決して合祀されていない。西郷は明治憲法発布(1889年)に伴い天皇の大赦で名誉は回復されたが、靖國には合祀されていない。「明治維新」の厳然たる性格を物語っている。これに対して、亀井静香前衆院議員・石原慎太郎元都知事・稲森和夫京セラ名誉会長らが名前を連ね靖國神社徳川康久宮司に「賊軍」の合祀を求める申し入れ書を提出したとされる(内原英聰「“賊軍・西郷どん”の靖国合祀を求める動き」、『週刊金曜日』1133号、2017年4月21日)。「賊軍合祀には安倍晋三首相の地盤である『長州』を礼賛するだけでなく、明治維新に“貢献”した人々を総じて称える政治的狙いが窺える」、「新時代の“大政翼賛”に連なる危険がある」という指摘がある(内原・同)。安倍首相の「国難突破」!を掲げた衆院解散・総選挙は、日中戦争が泥沼化していた1940年に「国難突破」を叫んで「紀元2600年祝典」を挙行した時代を想起させるが、「時代錯誤だ」とばかり言えないのではないか。

『明治維新という過ち』、『明治維新という幻想』

 興味深い本が相次いで出版されている。原田伊織『明治維新という過ち~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~〔完全増補版〕』(講談社文庫、2017年6月)、森田健司『明治維新という幻想 暴虐の限りを尽くした新政府軍の実像』(洋泉社・歴史新書、2016年12月)、原田伊織・森田健司『徹底対論 明治維新 司馬史観という過ち』(洋泉社、2017年10月)に目がとまった。いずれも本の題名・副題がたいへん刺激的である。明治維新の「過ち」「幻想」論を牽引している両氏の「徹底対論」は、森田氏(大阪学院大学教授、社会思想史、1974年生まれ)が「聞き出し役」になり原田氏(作家、歴史評論家、1946年生まれ)に「官軍史観」「薩長史観」の弾劾と「明治クーデター」の真相を存分に語らせている。原田氏は『過ち』において、「この150年近く、誰もが明治維新こそが日本を近代化に導き、明治維新がなければ日本は植民地化されたはずだと信じ込まされてきた。公教育がそのように教え込んだのである」という。また森田氏は『幻想』において、「明治維新=近代を招来する革命」観が「明治初年からほんの少し前まで、大きな批判を受けることなく普通にまかり通っていた」と批判する。そこに登場するのが、「司馬史観では見誤る歴史の真実」(『対論』第3章2)でとりあげられる司馬遼太郎の「史観」(「司馬史観」)である。果たしてそうなのだろうか?
 原田氏は『過ち』において司馬遼太郎を「明治維新」至上主義者と名付け、「司馬史観」の「基本となる部分に異議を申し立てざるを得ない」と言う。「『維新』至上主義の司馬史観の罪」について『この国のかたち 一』(文春文庫、1993年)の「3 “雑貨屋”の帝国主義」から有名な異様な記述を紹介する。文庫から司馬の文章をまとめる。司馬は「夢だったかどうかは、わからない」が、不意に「浅茅ヶ原」に出たところ、「巨大な青みどろの不定形なモノ」が横たわっていた。「君はなにかねと聞いてみると……その異胎は、声を発した。『日本の近代だ』というのである。ただしそのものが自らを定義したのは、近代といっても、一九〇五(明治二十八)年以前のことではなく、また一九四五(昭和二十)年以後のことでもない。その間の四十年間のことだと明晰にいうのである。つまりこの異胎は、日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦までの時間が、形になって、山中に捨てられているらしい。『俺を四十年とよんでくれ』と、そのモノはいった。……日本史は……途中、なにかの異変がおこって、遺伝学的な連続性をうしなうことがあるとすれば、『俺がそれだ』と、この異胎はいうのである」会話はさらに続き「参謀本部」に及ぶと、司馬は「ともかくも明治憲法下の法体制が、不覚にも孕んでしまった鬼胎のような感じがある」とし、「“統帥権”という超憲法的な思想」に言及して「4 “統帥権”の無限性」に移る。そこで司馬は自分が言おうとしていることはただ一つ、「昭和ヒトケタから同二十年の敗戦までの十数年は、長い日本史のなかでもとくに非連続の時代だったということである」と断言する。原田氏はさらに同様なことを述べた司馬『「昭和」という国家』(NHKブックス、1999年)では「大正末年、昭和元年ぐらいから敗戦まで、魔法使いが……(日本という国の)森全体を魔法の森にしてしまった。魔法の森からノモンハンが現れ、中国侵略も現れ、太平洋戦争も現れた」と述べるところを引用し、「連続性をもたない時代」を20年に圧縮した、と指摘した。要するに原田氏は司馬遼太郎が長い日本史に「非連続」「断絶」の時代がある(しかも年数に長短がある)としたことを批判し、「一つの民族の歴史」にそれまでの歴史と連続性をもたないことはあり得ない、「この『モノ』『異胎』『魔法の森』こそが、いわゆる『明治維新』の産物なのである」と指摘して、司馬の明るく・若い・幸せな「書生の革命」とする「『維新』至上主義」を「過ち」とするのである。『対論』の批判もこの論点に尽きる。

「明治」と「昭和」の断絶論を再審する

 幕末の「風刺錦絵」を広く深く研究した森田氏の問題意識は、『幻想』の「おわりにー一度断ち切られた『江戸と現在』をつなぐ」に述べられる。「日本は、戊辰戦争以降、ずっと『江戸時代の遺産』で食いつないできた。……私が江戸時代に惹かれる理由は、実にシンプルだ。そこに眩い庶民文化があったから、である。」この問題意識は司馬も共有するところであろう。司馬は「今日の私どもを生んだ母胎は戦後社会ではなく、ひょっとすると江戸時代ではないか」といい、「私は江戸時代の商品経済の盛行が、主として商人や都市付近の農民たちのあいだで合理主義思想をつくりあげさせたと思っている」と述べる(同書「14 江戸期の多様さ」)。江戸と現在は「断絶」してはいない。さらに『「明治」という国家〔上〕』(NHKブックス、1994年)では「第二章 徳川国家からの遺産」や「第三章 江戸日本の無形遺産“多様性“」について論じる。
 しかし司馬において「明治」と昭和」は断絶しているのか。磯田道史『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』(NHK出版新書、2017年)は第4章「『鬼胎の時代』の謎に迫る」で、本稿前述の「非連続の時代」を論じ、「司馬さんが本心から、明治と昭和が完全に切断されている、と考えていたのかというと、私には疑問です。社会の病というのは、現実の病気に似て潜伏期間があり、昭和に入ってとんでもない戦争に突入してしまう菌や病根は、やはり明治に生じていたのではなかったか。明治という時代は、まだそれが発症していない「幸せな潜伏期間」だったのではないか」と理解を示し、日露戦争の旅順・二〇三高地で大量に死体の山を築いた戦術的誤りの決行とそれを美談とする国民意識は司馬が「鬼胎」と称した「昭和前期」の病につながる病根であった、と述べる。そういえば司馬は「統帥権というおばけ」の出た「魔法の時代」について、「やっぱり明治憲法はまずかったのでしょうね。その理由を探すと、明治維新そのものにあったのではないかと思うのです」とはっきり述べている(『「昭和」という国家』)のである。司馬の「史観」の問題は「明治」「昭和」断絶論にあるのではないと思う。

琉球併合と朝鮮併合

 司馬の明治期を見る視野・「史観」そのものに実は問題がある。「司馬史観」に浸る私たちにも(浸ることに潜在する)問題があるのではないか。初めに「琉球国併合は明治最初の侵略併合行為だった」(後田多敦「“アジアの破壊者”という日本の影は簡単には消し去れない」『週刊金曜日』1133号、2017年4月21日)という論点を指摘したい。
 「明治天皇は1872年、琉球国王の尚泰を琉球藩王に封じて君臣関係を創出。これを根拠に1875年、琉球国と清国の琉清関係断絶命令、翌1876年には……日本軍駐屯も始まった。……1879年に琉球国の王権を簒奪し、王城を接収、沖縄県を設置した。その際、明治政府は琉球国王・尚泰を東京へ連行している。」この琉球王国併合は「明治維新以後の日本の周辺諸国に対する最初の侵略併合行為で、その後、台湾の割譲、韓国併合などへ進展する」のである。司馬は廃藩置県(1871=明治4年)を「クーデターあるいは第二の革命ともいうべき……政治的破壊作業」と論じ(『「明治」という国家〔上〕』「第五章 廃藩置県―第二の革命」)、自由と民権を論じたが(同「〔下〕」「第十一章 「自由と憲法」をめぐる話―ネーションからステートへ」)、琉球国併合への言及はない。『この国のかたち』(全6冊、文春文庫)も同様である。司馬には「街道をゆく」シリーズに『⑥沖縄・先島への道』(朝日文庫)があるが、これは紀行文であり琉球王国~併合には及んでいない。
 根本的な問題は司馬の「朝鮮観」にあるだろう。中塚明『司馬遼太郎の歴史観 その「朝鮮観」と「明治栄光論」を問う』(高文研、2009年)は長編小説『坂の上の雲』(サンケイ新聞夕刊連載、1968年4月22日~1972年8月4日)をもとに「『坂の上の雲』で司馬遼太郎の描いたイメージを紹介する。「『日本が明治維新で自立の道を選択した時、朝鮮の運命はその『地理的位置』と『主体的無能力』によって日本に従属し、その支配下に置かれることは決まっていた』」と。司馬はたいへん乱暴な議論をしたのではないか。
 司馬は「『古代の朝鮮』を語って『近代の朝鮮』を語らない」(中塚・同)のであり、司馬自身「外国からの侵略のほか自力では変わらない李朝的停滞」という決めつけ(司馬『歴史の中の日本』中公文庫、1976年)を行っているのである(中塚・同)。

(現代の理論 2018年冬号)

*アイキャッチ画像は明治神宮  Wikimedia Commons より