レキオからの便り 1  柘植の櫛

河合 民子(作家)

父の遺品

 寝たきりとなった父を自宅で介護していたある日、私は、お腹の中の息子へ、メッセージを書いたことを思い出していた。今、父の遺品を整理しながら、すでに私の遺品のような、その「ベイビーズ・ジャーナル」というノートを開いて見た。介護をしている日々は厳しく、それを引っ張り出す余裕などなかった。いずれ息子たちが読むことになるのだろうが、それはとても気恥ずかしく、封印してしまったのだった。頑丈に梱包した包装紙を解いた。久しぶりに読み返すと、まるで息子へのラブレターのようだ。なぜか、私は、父を介護しながら、またしても、ボネガットの「なあ、赤ちゃん」「せいぜい百年さ」という言葉をつぶやいていた。そろそろ父も、百歳近いのだなとその生の終焉を迎えようとしているとき、息子の誕生を心待ちしていた若い頃の自分がかぶってくるのが、不可解でもあった。

こんにちは、赤ちゃん。地球へようこそ。

この星は夏は暑くて、冬は寒い。

この星はまんまるくて 濡れていて、人でいっぱいだ。

なあ、赤ちゃん、きみたちがこの星で暮らせるのは、

長く見積もって、せいぜい百年くらいさ。

ただ、ぼくが知っている規則が一つだけあるんだ。

いいかい―

なんたって、親切でなきゃいけないよ。

  1981・8・24

  カート・ボネガット・ジュニア

  「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」P141

 父を眺めながら、一日でも長く地球人でいさせようと私は決心していた。

 そんな父も亡くなった。91歳だったから、天寿を全うしたといえるだろう。父のX・dayがくることは、常に覚悟をしていたが、あの朝、いつものように父の部屋のカーテンを開け、振り向いたとき、奇妙な静寂にすぐに気づいた。微動だにしない父は「もう起きないよ」という顔をしていた。私は、「ああ、いってしまった」と父の穏やかな顔を見ていた。「もういいよ、民子、ご苦労さん」とも言っているようだった。ふぅっといなくなった父だった。地球から去っていった父は、親切な人だった。そして、100年近くも地球で暮らしたのだった。

 戦中、戦後の激動期を青春の盛りで過ごした父たちは、その後の日本の高度成長期を形成した世代でもある。暗い戦争が終わり、放たれた未来への希望というのが満ちてもいた時代だったのだろう。第二次世界大戦の戦後処理を議論したケインズたちも、これからの世界を牽引していくという力強さに溢れていたと思う。地球上が、悲しい戦争の終わりに歓喜していた。

米軍と父の人生

 父の生きてきた90年を振り返ったら、そのまま沖縄の戦後史だ。終戦のとき、21歳だった父は、那覇の十・十空襲の直後召集されて、陸軍32軍第9師団武部隊へ配属され、台湾へ渡った。「幸運の武部隊」とも呼ばれた。台湾へ到着し、目にしたのは、父たちが南方へ送られる予定の軍艦の無残な姿だった。米軍の爆撃ですべて破壊されつくされた台湾の港の光景だった。輸送される手段を失ったほぼ2000人近くの兵隊が、そのまま台湾で足止めされて、戦うこともなく、戦争は終わった。おかげで、私の生がある。これも不思議な気がする。

 台湾から熊本へ行き、それから沖縄へ戻った父だった。米軍とともに動く、戦後復興のための旗振り役・A・Jカンパニーに入り、そこで、工事の契約書の翻訳などをやっていたが、情報に乏しい沖縄の仲間たちのために、米字新聞の日本語版の壁新聞つくりにも励んだという。それはメス・ホールの壁に貼られ、多くの読者を集め人気だった。検閲もなく、米軍側はとても協力的で、紙などの資材を気前よく提供してくれたという。

 父は、A・Jで、ミスター・ローズという地質学者にかわいがられる。工事のために必要な良質な砂を採取する方法を父に伝授したのだ。それをマスターすると独立し、運送会社を立ち上げ、畑を買い、砂を大量に取り、工事のために運んだ。晩年、「畑に行ってみると海になっていた」と苦笑いしていた。現代では考えられないことだ。その時代を『地図中心』という雑誌に描いている。

 1950年代の初め私は運送会社経営者として軍工事に直接参入していたので、基地建設の様子は脳裏に鮮明に焼き付いている。米軍基地建設用グラベル(砂)を軍に納入していたが、自社トラックでは間に合わず他社の応援も得てこなしていた。一日延べ1000台のクラベルを3年間納入したが、この量だけでも工事規模の巨大さが想像できるだろう。(『地図中心』2005年1月号)

 物心ついたころ、私たち家族は桜坂にいた。今では、ハイヤット・ホテルの前の道路となっている場所だ。すっかり風景が変わってしまっているが、私には、今でも、昔の桜坂を克明になぞることができる。父は、すでに運送会社を手放し、ここへ越していた。そこで母は、クラブ「キューバ」という酒場を営んでいた。運送事業で何があったのかは、詳しいことは聞かされていないが、次に父は、那覇の繁華街と化した桜坂界隈をまとめることに奔走し、バー組合を組織し、そのリーダーになっていた。父は続いて書いた。

 基地建設の工事入札には日本のゼネコンが数社参入して落札した。その結果ハイレベルの技術者や専門職人が本土から大勢沖縄に入域することになった。シマに現われたこの高給取り達の懐を狙って様々な商売が名乗りをあげる。桜坂バー街はそんな動きの集合体で、1952年にあっという間に街が出現した。音楽あり、洋酒あり、ご馳走ありの社交街だ。

 その後は国際劇場脇の国際通り歩道には、危なげな足取りの酔客の姿が増えだし、クリスマスになると銀色の三角帽子に赤いつけ鼻の酔客たちが桜坂を目指した。桜坂は新生那覇に新たな表情を加えていた。わずか3、4年で桜坂の店数は400軒近くに増えていた。

 桜坂バー街は、中華人民共和国と朝鮮戦争の落とし子だった。占領軍のお好みではなかったのか、桜坂が嫌いだったのか、米軍人の社交場にはならなかった。(同右)

 事実は、米兵たちが桜坂を嫌いだったのではなく、父たちが、女目当てにやってくる米兵を嫌い、逆に彼らをオフリミッツにしたと言っていた。入口や店の中に貼紙をした。桜坂の繁盛を見て、中部バー街の女性たちが移りはじめ、米兵が集まりだしたのだった。父がバー組合の必要性を感じたのも、その頃だったのだと思う。

母との記憶・祖母の言葉

 「キューバ」の上は家族の住む大きな部屋と、住み込みの女給(ホステス)さんたちが、4、5人隣の部屋にいた。桜坂時代は、たくさんの他人と生活していたことになる。彼女たちの部屋に行くと、いつも「青い山脈」が流れ、若さと明るい空気に満ちていた。夜になると、きれいに着飾って階下へ降りていく。また離島出身のお手伝いも2人いた。私が幼稚園のときは、若いミッチャンが送り迎えしてくれた。まだ10代だったと思う。いつもミッチャンに甘えていた。今でも、彼女の足の間に体を預けていたのを思い出す。彼女の体の奥の匂いに安心しながら、昼寝していた。わがままな娘だった気がする。昼寝から覚めると母はいなくて、外出から帰ってきた母を相手に泣きじゃくるのだった。どうして一緒に連れて行ってくれなかったのかと。今からじゃ嫌だ。あの時、行きたかったと理不尽だった。母との記憶は、そんなことばかりだ。「キューバ」のカウンターに私がちょこんと座り、その後ろに糊のきいた白いボレロ姿のおしゃれな母と一緒に微笑んで写った古い写真がある。父が撮ったのだと思う。私も、母の表情もとても穏やかだ。私を生んでくれた母だが、それからすぐに父母は離婚した。私も一変した。急激に開けた「世界」だった。それから父は私の「敵」になった。気がついたら、父は、今の国際通りの家にいた。そして、新しい母がやってきた。きれいな若い母だった。新しい生活の始まりだった。だが、すぐに馴染むことができずに、母親っ子だった私は、時々、母と会い、しばらく新しい家に帰らなかったりしていた。私は生んだ母に会うのを禁じられた。それを告げたのは、父ではなく、祖母だった。祖母は、「もう呼ばれても二度と行ってはいけない」と毅然と私を諭した。

 父の死後、戸籍を見ていたら、父が新しい母を入籍したのは、そんなことがあって5年も後だ。協議離婚して莫大な慰謝料を請求されたといっていたから、それを払い終えるのに5年かかったということだ。

 新しい家で庭を眺めてじっと考え続ける父がいた。私は怖くなり、思わず駆け寄った。「何を考えているの」と聞いたら、父は、はっとしたように私を見た。桜坂の食卓で、「バターの代わりに鼻の脂を塗ってしまうぞ」と、バターナイフを鼻に当てて私たちを笑わせていた父はいなかった。ぐるぐると木を回っていると虎がバターになってしまう「ちびクロサンボ」が大好きだった頃の話だ。そんな父は、この家(今でも私が住んでいる)で、精力的に文化運動を始めた。アマチュアの絵画グループ「ぴよぴよ会」、その後、沖縄音楽文化協会を設立した。その軌跡は、本土復帰運動の熱さともつながっている。最後の仕事になったのが、「ひめゆり平和祈念資料館」で、その開館の年、若い母は、癌で亡くなった。まだ57歳だった。

認知症の父と

 父は認知症だった。まさかと思ったが、私が気がついたときには、かなり進んでいたのだろう。母が亡くなって、ゆっくりと進行していったのかと考えている。2011年の大津波の年の暮れ、米寿の祝いが終わると、まるで櫛の歯がこぼれていくような父だった。1本ずつ、1本ずつ、こぼれていくのを、今の父が父なんだ。いつも私の父なんだ。最後の歯がなくなるまで、父であることを認めようと考えていた。いろんなことが普通にできなくなり、親と子の関係が逆転していく。寝たきりになり、話せなくなったとき、私は息子のことを考えていた。あれは洗濯の合間に息子を振り返ったときだった。まだ生まれたばかりの彼は、手足をぎこちなく動かし、ベビーラックで遠くを眺めていた。私は、とても寂しい気持ちになっていった。すでに息子は息子の道を歩み始めていた。ただ、ひとりで。―父は父、私は私、とずっと一線を引いて暮らしてきたが、いつの間にか、べったりと父に寄り添っていた。若いときには、考えられない展開だったが、私は、父の晩年を看取ったことで、「敵」であった父を私の中から消し去っていた。こんなにいい人と、考え直していた。きっと気難しい老人になるのだろうと、父のきっちりとして、厳しく几帳面な性格から想像していたが、晩年の父は、穏やかで、明るく、しかし鋭く本質を見抜くのは相変わらずのことだった。柘植の櫛はずっと柘植だった。父という櫛は最後まで自らを保っていた。そして、地球にさよならしたのだった。

地球へようこそ、さようなら

【レキオ ポルトガル語で琉球のこと】
レキオスは琉球人。友好的で武器を持たず平和を愛する人達と、トメ・ピレス『東方諸国記』で紹介された。
『東方諸国記』は、マルコ・ポーロの『東方見聞録』に次ぐ、ヨーロッパ人による網羅的な海のシルクロード地誌として知られている。(Weblio辞書沖縄大百科より)

(現代の理論 2017春号)
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