レキオからの便り 4 二つの気持ちの中で揺れ動く
河合 民子(作家)
沖縄人は、いつも、秘かに、二つの気持ちの中で揺れ動いている。「ヤマトめきたるもの」への憧れに似た気持ちと、「ウチナーびけーん(沖縄だけ・沖縄限定)」という自らが足を踏ん張っている沖縄という島への愛着の感情だ。「ヤマトめきたる」が大きく沖縄を動かしたのが、日本本土復帰運動であったと思うし、その底流に確固としたものを作っていた。そして、「ウチナーびけーん」は、今ふつふつと力をつけてきている沖縄独立論者たちの背骨を貫いているだろう。「琉球民族独立総合研究学会」は、設立時から会員の資格は「琉球人」と明確に記している。ここは、彼らがこだわる「琉球」なのだ。
沖縄の地上波テレビの民間コマーシャルは、日本大手の企業とともに多くの沖縄の企業が独自の路線で展開している。それは年々進化していて、今では、かつて県民を魅了していた沖縄芝居の真髄を見る思いだ。風前の灯のような沖縄芝居は、形を変えてテレビコマーシャルの中に生きている。寸劇仕立ての小気味のよいコマーシャルを見ていると、「このニュアンスは日本人に分かるだろうか」と考えている自分がいる。就職情報誌の「マイルド・ヤンキー」シリーズは秀逸で、ある一本は、リストラされた男に近づき気遣うヤンキーが「ディキラセ」と言って、情報誌を手渡すのだが、この「ディキラセ」は、まったく沖縄の日常からは消え去ってしまっている言葉だ。すっかり忘れていた言葉だった。直訳したら、これ(情報誌)で「できさせなさい」となるが、これで「がんばれ」が妥当だろう。意外な場所で元気を取り戻している「沖縄」だ。沖縄人が、日本人とは違う自分たちを、こんな形で強く意識した時代はかつてなかった気がする。天皇の軍隊が犯した沖縄戦での罪、復帰後「ヤマトめきたる」経済に呑み込まれ、つねに最貧困県である沖縄の姿は、当たり前のように押し付けられている過剰な基地への沖縄人の反発と重層し、自らを問いつづけ、今、その象徴としての辺野古の戦いがある。辺野古の海で、剥き出しの醜い姿をさらしている国家権力に対して、あくまでも「非暴力」で対峙している沖縄人の姿は感動的だ。すべての戦いの原点が辺野古にはあると思う。
苔の下と沖縄の墓
「ヤマトめきたる」ものは、明治政府以来、顕著なかたちをとったが、それは、明治に始まったわけでなく、琉球王府時代からみることができる。18世紀の第二尚氏の時代に平敷屋朝敏という和文学者がいる。彼が遺した作品の一つに『苔の下』があるが、擬古文物語ですべて古い日本語で書かれている。実在した遊女である「よしや」と「某按司」という男が主人公で、和歌がふんだんに散りばめられている勢いのある悲恋物語だ。この『苔の下』という言葉が問題で、豊かに日記文学等を読みこなしていた朝敏とは違い、そういう文学の素養のない私は、ついに終章で「苔の下」が墓の隠喩であることに気づく有様だった。というのも、じめじめとした苔むす墓の下というものなどは、沖縄には存在しないのである。死者を弔うには風葬し、洗骨して骨壷に収め、それを大きな墓室へと移す。(もちろん、今は火葬だ)。沖縄の墓は巨大だ。家よりも立派とも言われるほどで、那覇の文化財に指定されている墓は、内部に風葬のための設備も設けられている。朝敏の時代は、すでにこの形の墓が大陸経由で伝えられていたはずだが、多くの和文学の教養を身につけた朝敏の着地は、「苔の下」でなければ成立しなかったのだろう。「……こたへだにせぬ苔の下びと との給へば、墓のうち震動して、しばしやまず之につけても哀のまさり給ふ、……」とあり、どんな墓だったのかと私は悩んでしまう。 最近、新聞の折込チラシでおもしろいものがあった。墓の石材を扱う大手会社のものだ。「特許墓に使われるガラスは、ステンドグラスに利用される品質の高いガラスを主な素材とした、キャスト製法(溶かしたガラスを鋳型で成型する製法)で造られており、水分を吸収しないため、経年劣化がほとんど見られず、御影石と同等の強度を保っています」とあり、写真も多数掲載されている。私はこれは便利かもしれないと考えていた。墓の背後から採光できる穴があるのだ。しかし、と首をかしげた。墓口と呼ばれる墓の入口の石をはずしたら、奥に骨壷を並べるためのひな壇があり、そこに光は届いているはずだ。中の様子は十分に確認できる。年々、沖縄の墓も小さくなってきているし、墓の内部を照らす陽光は、果たして必要だろうか。まったく闇というものがなくなってしまう。年に一度は、清明の季節に墓のお祭りに出かけ、先祖の骨壷を墓口の向こう側に感じながら共に食事をする。そんなに、すかんとして明るい沖縄の墓を、さらに明るくする必要もなさそうだ。「苔の下」という朝敏の展開は、「ヤマトめきたる」もののファンタジーだろう。やはり最近目にした新聞の琉歌解説のシリーズ「琉歌ぬ玉々・22」では、平敷屋朝敏作・組踊「手水の縁」が紹介されていた。テーマは「紅葉(ムミジ)」で、「紅葉にする(ムミジ ナシュン)」は「紅葉が散るように死なせる意を表します」とあり、「沖縄では櫨の木の他にはほとんど見ることはできません。そのせいか琉歌にうたわれることはそれほど多くはないようです」。沖縄の濃い緑の樹木の中で真っ赤に色づく櫨はとても美しいものだ。ここでも、朝敏の言葉は一気に跳躍するのだ。「紅葉なしゆが(ムミジ ナシュガ)」、紅葉のようには殺せない、と。朝敏の美しく過激な作品群は「ヤマトめきたる」ものへの復帰の文化運動の気がしてならない。彼の悲恋物語に危険なものを感じた蔡温たちだったと思う。彼が生きた第二尚氏の尚敬王の治世は琉球王朝の官僚制等が完成した時代で、強力なリーダーシップを発揮したのが名宰相の蔡温だった。朝敏は、その王府によって国家反逆の罪で斬首された。
ウチナーびけーんウチナー口
私たちは、いつどこで「沖縄人(琉球人)」になったのか。どうしてこうも「ヤマトめきたる」ものを意識するのか。琉球王府が解体され、沖縄県が置かれたから、沖縄人なのか。「ウチナーびけーん」は、どこに根拠があるのか。沖縄語を話す沖縄人。しかし、沖縄語は明治政府の同化政策からほぼ140年が経ち、収奪は完成した感が強い。日常生活から消え去ってしまった言葉を取り戻すのは至難の業だ。今、沖縄では、翁長知事を筆頭に「ウチナー口で話そう」と盛んにキャンペーンを張っているが、私は一体誰がウチナー口を奪ったのかと考える。明治政府の政策であるのは明白だが、実は、それは我々=沖縄人自身ではなかったのか。方言札を首から下げられていた時代、「ワン(僕)は……」と言いかけて、担任に「君は、犬か」と怒られていたのを思い出す。その先生は、高齢になったが、今では首里で子供たちにウチナー口を指導していると話していた。彼らに羞恥心というのはあるのかと、その顔を見つめていた。
ギルマートの残した言葉「グロテスク」
沖縄人を、明確に日本人だと位置づける人がいる。その人は、琉球処分後のすぐの時期の上杉茂憲県令在任中に、「マーケーザ号」という420㌧ヨットでやってきた英国人で、博物学者という他は詳しいことは分からないという。彼は、F・H・H・ギルマートで『マーケーザ号巡航記』(1886年)という記述を残している。イギリスのサザンプトンを出航し、アデン湾、コロンボ、台湾の淡水経由で那覇港に降り立っている。その後横浜からカムチャッカへも出かけた。ちょっと不思議な人物でもある。1882年6月に3日間だけの滞在だったが、処分後の荒廃した首里城もおとずれている。その間、進むにも苦労するほどに、日に日に増えつづける大勢の野次馬に悩まされながらも、博物学者らしく、鋭く観察し、時代の大激流に呑み込まれているはずの沖縄の記録を残している。それは思いのほか、のんきで明るい沖縄の庶民の姿なのだ。それまでに、バジル・ホールやペリー、「波の上のガンチョー(眼鏡)」と沖縄人にあだ名されたベッテルハイムなど、琉球を訪れた異国人によって描かれた「沖縄人像」に接するのだが、「その後(ホール来琉後)の4分の3世紀の変化が、どの程度までこの自称〈礼を守る国民〉の多くの魅力を破壊しているかをぜひ知りたい」と冷静だ。そして、「幸いにわれわれは、この魅力がまだ失われていないことを知ったのである」と書いた。言葉に苦労しながら、石垣や道路の立派さを見、やっと出会った市場の女たちは、「大部分四、五十歳で妙に魅力がない」「琉球語のレッスンを得ようという誘惑を感じない」と正直だ。すでにそんな年代も過ぎた私にしたら、笑うしかない。産業革命後、やっと生活にゆとりができ、それを楽しんでいた英国人は、那覇港から入り江にたたずむ奥武山を眺めながら、日本の文化について考察している。「いったい何が彼らの服装や習慣、いや日本人の性質さえも、彼ら自ら住んでいる国へ、かくもぴったり融合させたのだろうか」「日本人の主要な特性は〈グロテスク〉なものを愛する心である」「琉球は、琉球人が事実上日本人であるとまったく同様日本である。ただ6度(緯度?)だけ調子が下げられ、その堅さが柔らげられた〈グロテスク〉さを持つ日本なのである」。ギルマートのヨーロッパは、彼の帰国後、しばらくすると第一次世界大戦が始まり、世界中を巻き込んだ「戦争の世紀・20世紀」に突入していく。今、ギルマートの残した言葉〈グロテスク〉を考えている。英国人のギルマートから見たら、日本人も、沖縄人も〈グロテスク〉ということなのだ。
(現代の理論2018冬号)
*アイキャッチ画像は Wikimedia Commons より


