リニア新幹線と静岡県知事選 現代科学技術信仰の見直し

牧 梶郎(本誌編集委員)

自民党の退潮と立憲民主党の前進

 川勝平太知事の辞職に伴う静岡県知事選は5月26日に投開票され、立憲民主、国民民主両党が推薦した元浜松市長鈴木康友氏が、自民党推薦の元副知事大村慎一氏らを破り当選した。その得票は、鈴木候補72万8千余票、大村候補65万1千票で、その差7万余票と事前予想以上の大きな差がついた。投票率は52・47%で、前回選挙の52・93%比べてわずかしか違わない。4月の衆院補選で自民党と立憲民主党の一騎打ちとなった島根1区の場合は、投票率が大幅に下がって、本来の自民党支持層が投票に行かなかったことが立憲民主党の勝利につながった、といわれた。ただ、今回は自民党支持層も選挙に参加してのこの差であるから、衆院補選以上に自民党の退潮傾向と立憲民主党の前進がはっきりしている。立憲民主党もそうした流れを読んで、東京都知事選に蓮舫氏を立候補させたのであろう。

それぞれの側の勝因と敗因について、またこの結果が政局を含め中央政界に与える影響などについては、今後、専門家によるもっと詳しい分析や検証がさまざまなされるであろうから、アマチュアでしかない私はこれ以上は立ち入らない。

リニア中央新幹線

 静岡県知事選挙に今回これだけの注目が集まったのは、川勝元知事が着工を頑なに拒んできたリニア(リニア中央新幹線)の工事が、今回の知事選を機に動き出すだろうとの観測が広まっていたからである。リニアはあくまで民間企業JR東日本の事業計画なのだが、あたかも「夢の国家プロジェクト」のように、財界も政界もメディアもこぞって成功への後押しをしてきた。そのせいもあってか、リニア実現に待ったをかけてきた川勝前知事は、嫌がらせをして悦にいるへそ曲がりのように思われてきた。その川勝氏が身を引いたから、推進派が活気づいたのも無理はない。
ところが、リニアの是非は選挙の争点にはならなかった。立候補した有力2候補がともにリニア容認派であり、明確に反対して選挙戦に臨んだのは共産党候補だけだったからである。その共産党は10万票ちょっとの得票で、メディアはリニアの工事着工は既定路線のように報じた。当選した鈴木新知事はリニア静岡工区の認可に関し「現状を把握して、いろいろな課題に対応する。自然環境の保全の問題はきちんとやる」と強調し、また、トンネル掘削に伴う水資源への影響の懸念払拭を前提とした上で「最後は政治的な決断が必要だ」と述べている。静岡県におけるリニア工事着工問題はまだ必ずしも決着したわけではない。

石破茂氏の「リニア見直し」発言

 そんなリニアをめぐる議論の中で、注目すべきは、自民党の元幹事長石破茂氏の「リニアは本当に必要なのか」という発言である。政界随一の鉄道好きといわれる石破氏には「国家プロジェクト」といわれるリニア計画の何が腑に落ちていないのだろうか。リニアは、最高時速505㎞のリニアモーターカーを使い、東京―大阪間を67分で結ぶ計画だ。石破氏はリニアは静岡工区だけの問題ではないと指摘する。「本当に東京から大阪まで通すリニアが必要なのか、という議論が十分成熟したと思っていない」というのだ。新幹線が遅いと感じる人は飛行機に乗るし、ビジネスならその多くはリモートワークでこと足りる。「もっと速い列車へのニーズはどこにあるのか」との疑問を投げかけるのは当然であろう。
 鉄道好きの石破氏は、トンネルばかりのリニアは乗って楽しい列車ではないし、地方の鉄道は置き去りではないか、とも発言した。
 リニアに関してはこれまでも左派市民運動が反対論を展開してきたが、この「リニアは本当に必要なのか」という根源的疑問が画期的なのは、それが保守政治家からなされたという点である。

60年代の成功体験

 それでは、市民反対派だけでなく保守政治家さえもが疑義を提起しているリニアが、なんで国民的な後押しを受けているように映るのだろうか?
 すぐ思いつく理由としては、1960年代に始まった高度経済成長に新幹線の開通(1964年10月)が、東京オリンピック(1964年10月)や大阪万博(1970年3月~9月)の成功とともに、高度経済成長への起爆剤となった、という成功体験である。停滞している日本経済に喝を入れ再び成長軌道に導くものとして、再度のオリンピック、リニア、大阪万博が期待されたとしても不思議はない。しかし、東京オリンピックの経済効果は期待以下、大阪万博もこのままでは負の遺産となりかねない。残ったリニアに財界政界が期待する分、メディアもそれに操られている国民も、知らぬ間に誘導されてしまっているのか?

より本質的問題としての科学技術信仰

もっとも、ふつうの庶民は経済成長などは考えてはいないので、リニアの経済効果に期待するのはそれにより利益を得る財界関係者だけかもしれない。であるなら、リニアの実現を望む日本人の気持ちは心のもっと深いところにあるのかもしれない。
 それは、明治維新以来、第二次世界大戦の敗北を経験してもなお日本が一路邁進してきた、欧米近代化がもたらした近代科学技術の発展こそが文明の進歩だという思い込み―科学技術信仰―ではないのか。世界に先駆けてのリニアの完成は日本人として誇りとなる。日本人の無条件の科学技術信仰は、戦前・戦中を通じて戦争に協力してきた科学技術者が、誰一人として戦後弾劾されなかったという事実にも示される。戦争遂行にちょっとでも手を貸した文学者の多くが戦争責任を問われたのを考えれば、科学技術者はつねに文明の発展に貢献している大事な存在だと思われていたことになる。こうした近代科学技術信仰は西欧社会から日本も引き継いだ当たり前でもある。「リニアは本当に必要なのか」を問い直す時に考えなければいけないのは、こうした科学技術への無条件の信仰ではないだろうか。

便利さと幸せと

 たしかにリニアは便利な社会生活に資する技術であり、その実現を望んだからといって問題はないし、私たちが生きている便利で豊富な物質に恵まれた高度文明社会を実現したのが科学技術の進歩であることも間違いない。しかし、だからといって私たちがみな幸せだとは限らない。こうした近代科学技術信仰は日本の憧れる近代欧米社会では当たり前で、原爆の父オッペンハイマー博士の苦悩もそこに起因したし、それが地球環境の危機を生み出し、今では殺人ドローンや生成AI兵器の発展をも促した。
 「NPO現代の理論・社会フォーラム」はこの夏、アフリカから森の民ピグミーを招聘して、人類の本来の姿に近いライフスタイルを営んできた彼らとの対話を企画した。私たちの今の生活様式を改めて振り返り、便利さや物質的豊かさが必ずしも幸せには繋がらないことを考える、ひとつの機会になればと願っている。

(現代の理論2024夏号)

(出典:国土交通省ウエブサイト)