アラビアのロレンスの大間違い 現代の非理論(2)
松本 仁一(ジャーナリスト・前朝日新聞編集委員)
深夜、衛星チャンネルで英国映画「アラビアのロレンス」(1962年英)をやっていた。3時間半もの長編大作だが、結局最後まで見てしまった。ロレンス役のピーター・オトゥールは文句なしだし、デビッド・リーン監督の筋立ては見事で、何回見ても面白い。前世紀の最高傑作映画の一つといっていいだろう。
その中で、思わず笑ってしまうセリフがあった。アカバ攻撃に向かう途中、アンソニー・クイン扮するアラブの部族長が、ロレンスに聞こえないように「アラブは一つだなんて、誰が言ったんだ」と笑う場面だ。昔、映画館で見たときには気付かなかった。
「アラブは一つ」。中東戦争のときつくられたお題目かと思っていたのだが、どうやらそれ以前からあったらしい。
アラビアのロレンスが活躍したのは第一次大戦だった。英仏露の三国協商と、独墺伊の三国同盟の衝突だ。当時、中東一帯を支配していたのはトルコである。トルコはドイツと結んでいる。英国は、そのトルコをたたいて紅海からアカバ湾、ダマスカスにいたる地域を押さえたい。そこで、情報将校であるロレンスがアラブ勢力の引き込みのために派遣された。
ロレンスはメッカのシャリフと会い、トルコ支配を打倒してアラブ人が自前の国家をつくるべきだと説得する。シャリフは自分のかわりに息子たちをロレンスにつけた。部隊は鉄道襲撃を繰り返しながらアカバを攻略し、ダマスカスを陥落させる。大勝利である。ロレンスは、これでアラブ人による自前の国家ができると思った。
しかし英仏は悪辣だった。メソポタミアを勝手に線引きして3分割し、委任統治領としてしまうのである。サイクス・ピコ協定だ。シリア地方は仏、イラク地方とトランスヨルダンは英。「アラブ人の自前の国」どころではない。落胆したロレンスは軍を辞め、やがてオートバイ事故で死亡してしまう。
分割された3地域は、イラクが1932年、シリア、ヨルダンは1946年になってやっと独立する。しかしいずれも、近代型のいわゆる「国民国家」ではなかった。
もともとイラクやシリア、ヨルダンという国家があって、それがトルコに占領支配されていたわけではない。そう呼ばれる「地域」があり、オアシスや町を中心に部族が割拠していた。彼らに国家意識などなく、地域内でもむき出しの部族対立があった。それが第一次大戦の結果、国という線引きに囲い込まれ、第二次大戦の前後にそのまま独立させられた。ナショナリズムも国民的アイデンティティーもないまま、国になってしまったのである。
イラクは大雑把にいうと、人口3000万人のうち60%がシーア派イスラム教徒のアラブ人、20%がスンニ派のアラブ人、20%はクルド人である。
シリアは2000万人のうちスンニ派アラブ人が70%、シーア派系アラウィ派アラブ人15%、クルド人15%。
ヨルダンは900万人口のうち、60%は中東戦争でパレスチナから逃れたパレスチナ人である。
そのそれぞれが強烈な宗派意識、部族ナショナリズムを持ち、対立しあっている。アラブは一つ、どころではない。アラブは宗派と部族の数だけあるのだ。しかしロレンスは、そんな違いは国をつくってやれば乗り越えられると思ってしまったようだ。民族は一つだし言葉は同じだし、アラブは一つじゃないか――。
映画でアンソニー・クインの部族長が笑ったのは、そのナイーブさだった。
◇ ◇ ◇
民族宗派ごちゃまぜのまま独立させられたイラクやシリアは、その複雑な利害対立を独裁で抑え込んだ。イラクはサダム・フセイン、シリアはアサド父子である。
イラクは6割がシーア派教徒だ。少数スンニ派出身のサダム・フセインは宗教色を徹底的に抑圧する政策をとる。宗教政党をつくらせないため、社会主義を掲げるバース党の事実上の一党独裁とした。秘密警察ムハバラートを強化し、反政府的な動きを弾圧する。大学研究者やジャーナリストがムハバラートににらまれ、消えてしまうケースが相次いだ。
シリアのアサド大統領はシーア派系少数部族の出身だが、やったことはイラクと同じだ。徹底的な独裁と弾圧。それが複雑な宗派対立、部族対立を抑え込む方法だった。ロレンスが夢見た「アラブ人の国」は、あらゆる不幸を封じ込めたパンドラの箱になってしまった。
◇ ◇ ◇
ロレンスの時代から1世紀が過ぎた。
2003年、ブッシュ大統領の米国がイラクに侵攻する。イラクが核兵器など大量破壊兵器を持っているという理由だった。サダム・フセインの独裁は終わった。しかし米国は、ふたが開いてしまったパンドラの箱をどう処理するか、まったく考えていなかった。
戦後、最初に起きたのは、治安の悪化だ。
私がイラク取材に入った夜、泊まった宿の窓の下の道路で銃撃戦が起きた。びっくりして跳ね起き、床にはいつくばったが、それが毎晩繰り返される。宿の2軒先に輸入外車の販売店があり、駐車場にベンツやキャディラックが置いてある。それをねらって武装略奪団がやってくる。販売店の方も武装した夜警を雇っていて、賊を見つけた夜警が発砲する。それに賊も応戦する。それで銃撃戦が始まるのだ。
初めは驚いていたが、そのうち慣れた。銃撃戦は道路に沿ってやっているから、宿の部屋に弾丸が飛びこんでくることはまずない。自動小銃の弾には10発に1発の割で曳光弾が入っている。それが赤く尾を引きながら飛び交い、はるか先のチグリス川に落ちてシュッと消える。そんな光景を見ながら眠れるようになった。
続いて起きたのが女児誘拐だ。登校途中の小中学生の女児が誘拐される。女児は湾岸産油国の金持ちに売り払われるのだと聞いた。これが頻発した。
米占領軍司令官の記者会見が行われたとき、イラク人記者が立って質問した。
「女児の誘拐が頻発しています。サダム・フセインの時代にはなかったことです。米軍が入ってきてからこうなった。これは米軍の責任ではないのでしょうか」
日本の戦後、これほどひどい治安の悪化はなかった。天皇はそのままだし、警官もそのままだ。「国を建てなおそう」というスローガンがすんなり受け入れられた。しかしイラクは、建て直すべき国がそもそもできていなかったのだ。
イラク戦争後の国民議会選挙はまるで宗教政党選挙だった。政策論争などなく、宗派の比率通りの得票率となる。6割を超すシーア派が割れたため連立政権となったが、シーア派の影響力は歴然としていた。フセイン政権下で政府要職にいたスンニ派の高級官僚や軍人は、自分たちの居場所を失う。彼らの一部がつくりあげたのがIS(イスラム国)だった。
イラクのIS勢力は、2018年までにどうにか鎮圧された。しかしシリアではいまも戦乱が続く。ラッカはロシアとトルコの支援で奪還したが、ロシアの成果にあわてた米国は、毒ガスを使ったとしてシリア政府軍にミサイルを撃ち込んだ。イランはシーア派のアサド政権を支援し、サウジは反政府のスンニ派に武器を送る。アラブはバラバラ。ロレンスが見たら気を失うような状況が進行中なのである。
◇ ◇ ◇
1990年には、イラクがクウェートに攻め込んで「湾岸戦争」が起きている。私はそのとき、新聞社のカイロ特派員だった。イラクがクウェートを恫喝している段階では、ほんとうに戦争になるのかどうか見通しが立たなかった。
ある日、日本大使館駐在武官の陸自二佐が「クウェート国境に、イラクの戦車が300台以上並んでいますよ」と耳打ちしてくれた。東京に打電すると、本社の軍事担当記者がすぐ電話してきた。
「300両もの戦車を国境に展開させるには、何百万ドルもの費用がかかる。脅しだけでそんなことをした国はない。イラクは本気で戦争をする気だ」
イラクはクウェートに攻め込むだろうという記事を書いた。それが紙面に載った日、東京のデスクから電話があった。
「東大の中東専門家の教授が、とんでもない記事だと怒っているぞ。アラブは一つだ、アラブ・オン・アラブなどということがあるはずがない、といってる」
イラク軍の戦車が怒涛のごとくクウェートに攻め込んだのは、その翌日だった。
まつもと・じんいち
ジャーナリスト、元朝日新聞編集委員。 1942年長野県生まれ。68年朝日新聞社入社。ナイロビ支局長、中東アフリカ総局長(カイロ)などを経て編集委員。2008年に退社後はフリージャーナリストとして活動。中東報道でボーン上田国際記者賞、連載「アフリカで寝る」で日本エッセイストクラブ賞、「カラシニコフ」で日本記者クラブ賞、「プロメテウスの罠」で新聞協会賞などを受賞。著書に『アフリカ・レポート』(岩波新書)『カラシニコフ』(朝日文庫)『アフリカを食べる・アフリカで寝る』(同)などがある。
(現代の理論 2018夏号)


