いつ、どこに自由があったのか ② そこに彼女がいた 2023年春
落合 恵子(作家・クレヨンハウス主宰)
2月24日。午前5時になるところだ。今朝は名残りの寒さがぶり返したようで、週末は雪が降るところもある、と天気予報が告げている。
ロシア・プーチン政権のウクライナ侵攻から1年。
わがクレヨンハウスの2階、子どもの本のフロアでは、作家別の書棚などと並んで、『3・11、わたしたちは忘れない。繰り返し問い続ける』と『平和のためにわたしたちひとりひとりは何ができるか』というコーナーがあり、祝日だった昨日も、家族連れのお客さまがそれらの書棚の絵本や写真集などを座り読みをしていた。
表参道から吉祥寺に移転して、まだ2カ月あまり。
この歳になって、大掛かりの引っ越しとは! と呆れられたが、46年間、本好きお客様と一緒に作ってきた空間をこんな時代に閉じる気にはなれず……、ここまで来たら倒れるまでサ、と期間延長。
もともとは20代、30代で出したシリーズのエッセイ集で手にした印税を、思い切って使ってしまおうと開いた専門書店。当時、勤めていたラジオ局では政治的発言はタブー、女子アナはメインの男性の言葉を受け止める役。異論反論は禁止。社会そのものが、言ってみるならそういった性別分業を受け入れ、再生産、再助長していたのだから、メディアだけが例外というはずもない。
仕事としては面白い面もあったが、だめだな、こりゃ、と思った時に、女性誌に連載していたエッセイが単行本となり、かなり売れた。わたしが暮らしていたのは、「一家の主」であるひと、通常は男性=父親のいない家庭、働き手は母だった。
戦後の東京に立ったキャラメルの箱(のように見えた)小さな雑居ビルで経理をはじめ、あらゆる雑務を引き受けながら、夜は同様のビルの掃除を請け負っていた母。その母との、唯一楽しい、解放感に溢れた時空が日曜日。大きなおむすびと、醤油と砂糖でしっかり味をつけた卵焼きをもって出かけた井の頭公園。池の表に小さな棘のようにたつさざ波を見つめる母は、当時30代の半ばだったろうか。
本と映画が好きで、「もう読んだ本より、まだ読んでいない本があるのは、しあわせなことだと思う」
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母の言葉と、わが子どもの本の専門店はどこかで結ばれているようだ。「何になるかではなく、大事なのはどう生きるかだ」と彼女が言ったのは、夕方までの母のデスクワークは認めながらも、夜の雑居ビルの清掃は「やめて」と頼みこんだ頃だったろうか。
母は清掃を請け負ったビルまでわたしを連れていって、そう言ったのだったか。記憶は定かではない。その言葉は昨年刊行した4人の女の戦後史を描いた『わたしたち』(河出書房新社)の帯でしっかり再現させてもらった。 母は誰にでも心を開くひとでもあった。その意識はいつも他者の痛みと喪失に向いていた。それ自体は否定すべきことではないが、10代の頃から、娘であるわたしは時々疑問を抱くようになっていた。なんでも誰かにあげてしまう気前のいい母に対しても。
以下はその母の介護の日々を描いた小説『泣きかたをわすれていた』で、主人公の娘が呟く言葉とも重なる。主人公である専門書店をやっている冬子は、母親を愛しながらも、いつも少しの苛立ちとじれったさを抱いていた。……ねえ、おかあさん。自分自身が誰かから贈られることを切実に望みながらも結局は手に入れることができなかったもの、たとえば(自分の)痛みへの共感。たとえば「よくやってらっしゃいますね」という肯定。「あなたをわたしはちゃんと見ていますよ」という評価。誰かに差し出すそれらを欲しかったのは、お母さん自身だったのでは? こうしてほかの誰かに差し出すことによって、お母さんは心の隅にずっとあった空洞を無意識のうちに埋めているのでは? 目の前で音をたてて閉じられた扉。家の中から聞こえてくる団欒という「音」。その中に入ることを許されなかったあなた。閉じられた扉の前で立ち尽くした若い女、あなたはあの時、決めたのではなかったか。自分は決して扉を閉じない、と。誰の苦しみをも見落とさない、と……。
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こうして、母は疲れを積もらせて、神経症という症状の中で漸く彼女自身を解放することに成功した。それ以外に、彼女は心の置き場所を見つけることはできなかったのかもしれない。
娘は、「かもしれない」の旅をいまも続けている。
「クレヨンハウス」から、ゆっくり歩いても7、8分で到着する井の頭公園に向かいながら、ふっと甦った遠い日の若い彼女に呼びかける。「家制度が色濃く残る戦後すぐのこの国で、未婚で出産したことを必要ならば表明し、場面によっては押し入れの奥に放り込んで、頑張って、働いて、そして疲れていったあなた。あなたの頑張りを賞賛する人もいるけれど、そしてその気持ちはわたしの心の隅の隅にもあるけれど、あなたのような女や、あるいは他のマイノリテイ、LGBTQであっても、多数と違うというだけで頑張らなくてすむ社会がわたしの理想。苦労話なんていらない社会こそ、人間関係こそが拓かれた社会だとわたしは考える。社会から「負」の記号を不当にも押し付けられたひとが、それゆえに必要以上に頑張らなくてはならない社会は、差別を許容する社会であり、それゆえに歪んでいる」
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ほぼ40年前、婚外子差別(当時は「私生児」と呼んだが)と闘い、国を相手に、子どもに代わって裁判を起こしていた事実婚のおふたりがいる。生まれた娘さん(当時は[私生児]と呼ばれた)の代理として闘っていた。市役所の、ふたりとも職員であり、立場としても苦労続きであったと思う。
その彼女たちたちの、差別撤廃を掲げた裁判で、わたしは原告側の証人となった。面倒なことをいろいろ言われるよ、と心配してくれた友人たちもいたが、そんな中で、わたしの背中を押してくれたのは母だった。神経症がさらに重くなって、日々、寝床の中にいることしかできなかった彼女である。
証言をすれば、母のプライバシーも否応なく出てしまう。もっともいくつかの週刊誌には多かれ少なかれそのことをすでに書いてはいたが。証言をすれば彼女のプライバシ―がより暴かれる場合がある、と告げたとき、母は言った。「それで少しでも差別がなくなる方向に行くなら、わたしはかまわないよ」
それから、珍しく眉の間の縦皺を消して母は言ったのだ。「あなたがいまもっとも気に入っている服を着て、行きなさい」
かのヘンリー・デイヴィッド・ソローは言った。
「……ひとりが動けば、世界は変わる」、と。
自国のメキシコ侵略戦争と奴隷制に反対して、納税を拒否した彼である。そして21世紀の現在、この国でははじめて単著が刊行されたエリカ・チェノウェスは記す。
「3・5パーセントが動けば 社会は変わる」と。
なかなかそうはいかないが、「闘いの日には最も気に入った服を着る」。これはいまも大事なわたしの日常のルールだ。
(現代の理論 2023春号)



