靖國神社・「戦死者の魂独占」の虚構 すべての戦没者を対象とした国立追悼施設を造れ
内田 雅敏(弁護士)
靖國神社の本音
2018年10月31日、靖國神社の小堀宮司が辞任した。職員研修会で、戦没者慰霊の旅を続ける天皇は靖國神社を潰そうとしていると発言したことを「不敬」と批判されての辞任だ。小堀宮司は、天皇の慰霊の旅先には、遺骨は有るかもしれないが御霊(みたま)はないとも語った。
後述する戦死者の魂独占の虚構と天皇参拝を生命線とする靖國神社として、小堀宮司の発言は、天皇の不参拝に苛立った同神社の本音ではなかろうか。
靖國神社は1879(明治12)年、別格官幣社として設立された。官幣社は大社、中社、小社の三種があり、官幣大社は、出雲大社、諏訪大社など30社近くある。別格官幣社は、官幣中社、小社と同格であった。別格官幣社は1872(明治5)年、楠木正成を祭神とする湊川神社が最初の設立。次いで、靖國神社、北畠神社など、天皇に尽くした臣下を顕彰する神社として続々設立された。いずれも祭神を褒め、称える顕彰を主目的とし、追悼施設ではない。
靖國神社が追悼施設でなく顕彰施設であることは靖國神社に併設されている遊就館の各展示を見れば一目瞭然だ。展示室には、大伴家持の歌「海ゆかば、みずくかばね、山ゆかば草むすかばね、大君の辺にこそ死なめ、かへりみはせじ」が掲示されている。この歌は、戦時中、日本軍の「玉砕」などの報道の際に流されたこと、また信時潔が重苦しい曲を付けたことから鎮魂歌と誤解するむきもあるが、歌詞を見れば明らかなように、天皇のために死んだ兵士を褒め称える歌であることが分かる。
靖國神社の「聖戦史観」
靖國神社が「日本の独立と日本を取り巻くアジアの平和を守っていくためには悲しいことですが、外国との戦いも何度か起こったのです。明治時代には『日清戦争』『日露戦争』、大正時代には『第1次世界大戦』、昭和になっては『満州事変』、『支那事変』そして『大東亜戦争(第2次世界大戦)』が起こりました。 戦争は本当に悲しい出来事ですが、日本の独立をしっかりと守り、平和な国として、まわりのアジアの国々と共に栄えていくためには、戦わなければならなかったのです」(靖國神社発行「やすくに大百科」)と、戦後の今なお、世界で通用せず、また歴代の日本政府の公式見解【注1】にも反する、先の戦争を正しい戦争であったとする聖戦史観に立つのは、同神社が追悼施設でなく顕彰施設だからだ。間違った戦争での死者を「護国の英霊」として顕彰することはできない。だから靖國神社は、「聖戦史観」を絶対に放棄できない。放棄したら靖國神社でなくなってしまう。このことがアジアからの批判を呼ぶ1978年のA級戦犯の合祀に繋がり、また1975年を最後に昭和天皇参拝の取り止めの原因ともなった。ただし、その後も勅使の派遣はなされている。これも憲法違反だ。
戦前、歴史も浅く、社格も決して高くはなかった靖國神社が、他の神社を凌駕する特別な地位を獲得し得たのは、陸海軍省が所管し、天皇の軍隊の戦死者の魂全てを祀り、そこに、臣下に頭を下げることのない天皇が参拝してくれるとされたからだ。靖國神社は、天皇の参拝によって戦死という悲しみを、誇らしげなものへと変え、後に続け!と戦死者の予備軍を作り出すための宗教的軍事施設、すなわち戦争神社であった。「夢に出て来た父上に、死んで帰れと励まされ」(露営の歌)という恐ろしい時代を背景に靖國神社は戦争によって育っていった。
日本国憲法下の靖國神社
戦後新憲法下、靖國神社は、他の神社、寺と同様、国家とは離れ、民間の単なる一宗教法人となった。靖國神社は、戦後も戦前と同様、特別な地位を占めるため、戦死者の魂独占の虚構の維持と天皇参拝の継続に腐心した。国立の追悼施設を設けていない国も、これを助けた。靖國神社は、敗戦の年12月15日の占領軍総司令部(GHQ)による国家神道廃止指令に先立つ11月20日、天皇列席の下、臨時大招魂祭を行い、先の戦争の戦死者全ての御霊を招き寄せたとする。遺骨の有無は関係なし、誠に便利な教義だ。しかし、それだけでは、個々の戦死者を特定できず祭神として合祀できない。合祀するためには国からの情報が不可欠だ。すなわち神社の核心を構成する祭神が国の関与なくしては決められない。
国は、戦傷病者・戦没者遺族等援護法を適用した全ての戦死者の名前を「祭神名票」として靖國神社に自動的に送付する。これを国は、「行政サービス」と弁明するが、国が、特定の宗教団体に特別な便宜を与えることを禁じた憲法第20条政教分離原則違反だ。この仕組みは、戦後の復員事業を担った旧軍人らによってつくられた。その中心になったのが陸軍省高級副官を務めた美山要蔵陸軍大佐だ。敗戦直後、東条英機は、美山を呼んで、すべての戦死者の合祀を命じた。
靖國神社は、戦死者、遺族の意向にはお構いなく「護国の英霊」として合祀する。先の戦争は正しい戦争であったとする歴史観に立つから、かつて、植民地下にあった韓国人戦死者についても創氏改名の日本名で合祀する。「護国の英霊」としてだ。
「3・1運動によって建立された大韓民国臨時政府の法統……」(韓国憲法前文)
と、日本の植民地支配に対する抵抗を建国の礎とする韓国民戦死者・遺族に対してあまりにむごい仕打ちではないか。韓国人、台湾人の戦死者合祀は合計で4万9000人、そのほとんどが、戦後14年を経た1954年になってからだ。創氏改名の日本名での合祀であるから、「靖國神社では、戦後もなお、植民地支配が続いている」。
靖國神社は、家族からの合祀取り下げ要求には絶対に応じない。取下げに応ずると、靖國神社の生命線である戦死者の魂独占の虚構が崩れるからだ。靖國神社による戦死者の合祀は戦死者を悼むためでなく、靖國神社自身のためのものだ。
中曽根首相の靖國神社参拝を巡る 二つの官房長官談話
1985年8月15日、中曽根首相は、靖國神社を首相として初めて公式参拝した、その際に
「国民や遺族の方々の多くが、靖國神社を我が国の戦没者追悼の中心的施設であるとし、同神社において公式参拝が実施されることを強く望んでいるという事情を踏まえた」(「閣僚の靖國神社参拝問題に関する懇談会」藤波内閣官房長官談話)とされた。ここでは靖國神社の「聖戦史観」についての言及が全くなかった。同官房長官談話は「公式参拝に関しては、一部に、戦前の国家神道及び軍国主義の復活に結び付くのではないかとの意見があるが、政府としては、そのような懸念を招くことのないよう十分配慮してまいりたいと考えている。さらに、国際関係の面では、我が国は、過去において、アジアの国々を中心とする多数の人々に多大の苦痛と損害を与えたことを深く自覚し、このようなことを二度と繰り返してはならないとの反省と決意の上に立って平和国家としての道を歩んで来ているが、今般の公式参拝の実施に際しても、その姿勢にはいささかの変化もなく、戦没者の追悼とともに国際平和を深く念ずるものである旨、諸外国の理解を得るよう十分努力してまいりたい。」とも述べたが、アジア諸国からの厳しい批判を受けて翌年からは参拝を断念した。「アジアから孤立したら英霊も悲しむ」とは中曽根首相の残した名言である。この年8月14日、後藤田官房長官は、「内閣総理大臣その他の国務大臣による靖國神社公式参拝に関する談話」を発した。同談話は、前年8月14日に発せられた前記藤波官房長官談話において「政府が表明した見解には何らの変更もない」としつつも、「しかしながら、靖國神社がいわゆるA級戦犯を合祀していること等もあって、昨年実施した公式参拝は、過去における我が国の行為により多大の苦痛と損害を蒙った近隣諸国の国民の間に、そのような我が国の行為に責任を有するA級戦犯に対して礼拝したのではないかとの批判を生み、ひいては、我が国が様々な機会に表明して来た過般の戦争への反省とその上に立った平和友好への決意に対する誤解と不信さえ生まれるおそれがある。それは諸国民との友好増進を念願する我が国の国益にも、そしてまた、戦没者の究極の願いにも副う所以ではない」と事実上、藤浪官房長官談話の「修正」をした。
この「修正」は靖國問題を考える場合、きわめて示唆に富む。すなわち、藤波官房長官談話は、「中曽根首相の公式参拝ありき」を前提とし、同官房長官の下に、「識者」らによる「閣僚の靖國神社参拝問題に関する懇談会」を設け、公式参拝を是とする報告書(ただし、8対7の僅差)を提出させ、公式参拝に関する「環境」づくりをしたうえでなされたものであり、そこでの議論は専ら、参拝の形式が、憲法の「政教分離原則」に反するか否かという、「内向き」のものであったのに対し、後藤田官房長官談話は、アジアに目を向けた「外向き」視点をも併せ持った視野の広いものである。
戦死者らの追悼を 一 宗教法人に委ねるのは国の怠慢
靖國神社による戦死者の魂独占の虚構は、国からの情報の提供、すなわち、祭神名票の送付によってはじめて成り立つ。国が、戦死者に対する追悼を祭神名票の送付を通して民間の一宗教法人にすぎない靖國神社に事実上委ねているのは怠慢だ。天皇の慰霊の旅に「お任せ」すべきでもない。
先の戦争は不正義の戦争ではあったが、戦死者たちは、国の命令によって戦場に駆り出され、「戦陣ニ死シ、職域ニ殉ジ、非命ニ斃レタ」(終戦の詔勅)。国は自らの責任において彼らに対する追悼をなすべきだ。非業、無念の死を強いられた死者たちの声に耳を傾け、死者たちをひたすら追悼する、そして死者たちを讃えたり、死者たちに感謝したりは絶対にしない。称え、感謝した瞬間に、死者たちの政治利用が始まり、死者たちを生み出した者の責任が曖昧にされる。
国は、8月15日の全国戦没者追悼式だけでなく、全ての人が参拝できるよう、例えば、沖縄の「平和の礎」のような、ひたすら追悼だけを目的とし、軍人・軍属だけでなく、すべての戦没者を対象とした無宗教の国立施設を造るべきだ【注2】。
【注1】 歴代政権とは異形な安倍政権
2013年8月15日、安倍首相は、「国のために戦い、尊い命を犠牲にされたご英霊に対する感謝と尊崇の念こめて」自民党総裁として玉串料を奉納し、靖國神社参拝は断念した。安倍首相は、萩生田光一総裁特別補佐を名代として靖國神社に玉串料を届けさせるに際し、「先の大戦で亡くなった先人の御霊(みたま)に尊崇の念を持って哀悼の誠を捧げてほしい。本日は参拝できないことをおわびしてほしい」と伝えたという(2013年8月16日、産経新聞社説)。
同年12月26日、安倍首相は、突如、靖國神社に参拝した。この参拝については、アジア諸国は勿論のこと、欧米諸国からも厳しく批判されたことはまだ記憶に新しい。
安倍首相の歴史観は「国際社会の平和、安定に、多くを負う国ならばこそ、日本は、もっと積極的に世界の平和に力を尽くしたい、“積極的平和主義”のバナーを掲げたい…自由と人権を愛し、法と秩序を重んじて、戦争を憎み、ひたぶるに、ただひたぶるに平和を追求する一本の道を日本は一度としてぶれることなく、何世代にもわたって歩んできました。これからの幾世代、変わらず歩んでいきます」 (2014年5月、シンガポールで開催されたアジア安全保障会議)シャングリラ・ダイアローグでの基調講演)。に見られるように、靖國神社の「聖戦史観」と完全に重なる。
安倍首相は2014年4月、高野山真言宗の奥の院にある「昭和殉難者法務死追悼碑」の法要に、自民党総裁として、「今日の平和と繁栄のため、自らの魂を賭して祖国の礎となられた昭和殉職者の御霊に謹んで哀悼の誠を捧げる」とメッセージを寄せた。同法要は東條英機らを含むA級、BC級戦犯として処刑された元日本軍全員を「昭和殉難者」として慰霊するもので、連合国による戦犯処罰を「歴史上世界に例を見ない過酷で報復的裁判」としている。(2014年8月27日朝日新聞)
【注2】1952年5月1日、官民挙げての「全日本無名戦没者合葬墓建設会」が発足した。政府の組織ではないが、首相らが先頭に立って、全国の市町村長を通じ、建設資金として一戸、10円の募金集めも始まった。建設会の設立趣意書は以下のように述べている。
「米国にはアーリントンに無名戦士の墓があり、英国にはトラファルガー広場に無名戦士の塔があり、仏国にはパリ凱旋門内に無名戦士の墓があって、何れも全国民により毎年鄭重な祭典が行われておりますが、それは人道上当然なことで、私どもは、わが国にもその必要性ありと考え……。戦没者は全部靖國神社に合祀すれば足りるではないかと言う人もありますが、同社は主として戦死軍人軍属の御霊を祀る所で、一般戦没者には及ばず、而も御遺骨を埋葬する場所ではありません。その上、神道以外の宗教とは相いれないものがあって、友邦の外交使節の参拝を受けることもどうかと存じますから、御遺骨の実体、各宗派の立場、外交上の儀礼の点から考えても、靖國神社とは別に霊場を造営する必要があります。……大霊園を創り、毎年春秋に、神、仏、基(キリスト教)の各宗派によって、厳粛な祭典を挙行し、後代再び斯様な犠牲者を出さないよう世界恒久の平和を祈念することに致したく……」
軍人軍属だけでなく、戦没者のすべてを、宗教各派の垣根を越え、外国の使節も迎えることのできる「国立追悼施設」が目指されていたのであった。
この構想が実現されていれば今日のような「靖国問題」は生じなかったと思われる。ところがこの構想は靖國神社、日本遺族会らの反対で換骨奪胎され千鳥ヶ淵戦没者墓苑に矮小化され、実現しなかった。

国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑(同ホームページより)
(現代の理論2019春号)


