レキオからの便り 3 抗う俳人―野ざらし延男
おおしろ 建(俳人)
沖縄には、「有季定型」や「花鳥諷詠」などの伝統俳句に抗ってきた俳人がいる。その名は「野ざらし延男」である。1941年生まれ、本名は山城信男である。季語や定型にとらわれない超季を唱え、「新しい俳句の地平を拓く」ことを目指し沖縄俳句革新の旗手として知られた人物だ。 「野ざらし」とは、かなり変わった俳号である。「野ざらし」とは「野外で風雨にさらされていること。風雨にさらされて白くなった頭骨。どくろ。しゃれこうべ。髑髏(されこうべ)」などの意がある。聞いているだけで、不気味な名前である。こんな名前を俳号にしたのにはある出会いがあるという。「高校二年の時、松尾芭蕉の作品に出会った、そのことが決定的であった」という。その作品というのが《野ざらしを心に風のしむ身哉》であった。この句は『野ざらし紀行』に載っており、旅に出発するにあたり「野ざらしの白骨になることも覚悟していざ旅に出ようとする」悲壮な決意の一句と言われる。野ざらし氏は、この句に芭蕉の生涯を賭ける狂気と覚悟を読み取ったのである。旅先で野垂れ死にし、白骨化するかも知れないと思いつつ、胸に俳句革新の熱を秘めて俳句の旅に出た芭蕉の覚悟と生き方の凄まじさに、「私もそういう生き方をしてみたい、俳句に命を賭けてみたい」と決意した。俳号の「野ざらし延男」はそこからきているという。高校2年で、芭蕉と運命的な出会いをし、生涯を俳句に賭けた。その生き方もまた、芭蕉のように凄まじいものがある。
「無冠」から「天荒」へ
時代は日本復帰前、まだ米軍による支配が続く1960年代に遡る。そんな時代に野ざらし氏は、青年俳句サークル「無冠」を立ち上げた。米軍支配下の1960年代の沖縄の俳句界の状況といえば、花鳥諷詠、有季定型を主張する「沖縄俳句会」(連合体)が存在していた。野ざらし氏によると「沖縄俳句会」は、「俳句は政治や社会を詠む文芸ではない。俳句は季題(季語)を入れ、季節や自然を詠むものである」と唱えていた。句会では高点句を競い、賞品に一喜一憂し、句会は酒座と化し、「文学としての批評精神が欠如していた。異民族支配下の不条理な沖縄の時代性を無視し、社会性俳句や無季俳句を排除していた」という。「文学とは何か」「時代に生きる俳句とは何か」という根源的な問いかけがなかったというのである。
こうした現状に若手の俳人たちが反旗を翻した。1963年10月、青年俳句サークル「無冠」が結成された。17名が集まった。代表の野ざらし延男は弱冠22歳であった。沖縄俳句界の閉塞状況に風穴をあけ、時代を切り拓く「文学としての俳句」の確立を目指したのである。
そして同年の12月に、「無冠」結成記念大会として「俳句研究創刊30周年記念全国俳句大会沖縄大会」(那覇市集会所)を開催するのである。戦前戦後を通して沖縄初の全国俳句大会であり、米軍占領下における全国大会であった。大会作品の選者団には秋元不死男・赤尾兜子・遠藤石村・榎本冬一郎・金子兜太・角川原義・楠本憲吉・野沢節子・野見山朱鳥・堀井春一郎・益田清・横山白紅・横山房子・和知喜八ほか24人。日本俳壇の錚々たるメンバーが名を連ねている。22日の大会では記念講演が5本もあり、圧巻であったようだ。沖縄俳句史に刻まれた一大イベントである。「無冠」同人のたちの大会入賞句を紹介する。
秋刀魚焼く母に背景なにもなし 与儀勇
冬落暉島の軌跡は墓碑ばかり 新垣健一
沈む孤島の楽器変調塩雨以後 桑江常青
夜香木闇に多感な風流れ 松川憲光
犬眠る全く「沖縄」排除して 山城久良光
陽の島の蝶奔放に孕むもの 浦崎楚郷
深夜の電話天より白鳩降りて聴く 野ざらし延男
1964年7月、俳句同人誌「無冠」が創刊された。創刊号は前年の「俳句研究創刊30周年記念全国俳句大会沖縄大会」を特集している。創刊の指標には、「異民族支配下における俳句文学の自立を問い、闘いの場とすること」「世界最短詩形としての俳句文学の可能性を追求すること」「風土性を尊重し、抒情性を発掘すること」「相互批評、自由な研鑽の場にすること」などが掲げられている。
「無冠」は、数々の俳句大会の開催や特集、会員相互の批評会などを行っていったが、5号(1968年12月)の野ざらし延男第1句集『地球の耳』特集を最後に「休刊」となる。それは代表である野ざらし氏の病による。腎臓病を罹患して入院。蛋白尿と血尿で苦しみ、病気休職となる。しかし、誰もこの窮状に手を差し伸べる者もなく、とうとう自然消滅の形になり「無冠」は挫折したという。
野ざらし氏は病院のベットに横たわりながらも、胸中には「廃刊」の文字はなく、「休刊」のままであったという。いずれ病が癒えたなら、同人誌を再生させたいの火種は消していなかったという。腎臓病から始まった病は、その後、幾つも野ざらし氏を襲い、休職などに追いやる。過労からくる眼病や腱鞘炎、耳疾、足の骨折など手術や入退院をくり返す。それでも俳句革新への情熱は失われない。1982年11月に「天荒俳句会」を結成する。1998年11月の俳句同人誌「天荒」を創刊(年3回発行)するまで、「無冠」休刊から30年の月日が流れるのである。
野ざらし氏は「天荒」の指針を次のように述べる。「新しい俳句の地平を拓くためには、季語を絶対化しない。季語は言葉の海に泳がせ、超季の立場で望む。言葉が詩語としてどれだけ輝いているかを問う。詩的創造力こそを問い続ける」と。現在、「天荒会報」は通巻502号、俳句同人誌「天荒」は58号になる。俳句革新の道はまだ続く。
「野ざらし句集」
野ざらし氏は2017年の現在まで、『地球の自転』『眼脈』『野ざらし延男句集』『天蛇』の4冊の句集を出版している。長いキャリアの割りに本人の句集は少ないような気がする。その理由は、沖縄での俳句の裾野を広げるための俳句教育に力を入れてたからだと思える。
1976年、30代の若さで沖縄タイムス紙の「タイムス俳壇」の選者に抜擢された。社会的にも俳句を指導する立場になったのを契機に、高校の学校現場でも俳句創作指導にも力を入れ始めるようになったという。これが後に、教職在職の約30年の間に、6校の高校で全国規模のコンクールで数々の賞を受賞させることになるのである。その30年の間に生徒が作った作品は10万句になる。そのうち全国1位が個人、団体で9回、2位は32回、3位以下だと200回以上になる。各赴任高校で発行した「高校生俳句集」は17冊に及ぶ。野ざらし氏は「抗う俳人」であるだけでなく、「俳句の種を蒔く人」でもあった。この高校生の俳句指導についても紹介したいが、この辺で終わりにしたい。
第1句集『地球の自転』(1967年8月・深林社発行)。序文は「海程」主宰の金子兜太氏、跋文は新屋敷幸繁氏(詩人・大学教授)、解題を益田清氏(九州俳句作家協会事務局長)が執筆。装丁・カットを画家の大城皓也氏。豪華なメンバーである。作品は15歳の1956年から25歳の1966年までの10年間、312句である。時代はベトナム戦争(1960年~75年)が激化していく頃で、ベトナムへの出撃基地として、空では爆音が響き、海では原潜が出入りする基地沖縄であった。野ざらし氏は「あとがき」で「この基地沖縄の現実を今後も作品の主題としてとっ組みたい」と述べている。句を幾つか紹介する。
疑惑なお深む鼠骸にたかる蟻 (16歳)
白昼テロ百姓己れは蛇殺す (19歳)
炎天の鍬振る一代のみの土地 (〃)
石抱いて明日も生きたし初日の出 (20歳)
黒人街狂女が曳きずる半死の亀 (〃)
独楽天へ投げて貧しき掌に澄める (〃)
月に汚点混血の児はしのび泣く (21歳)
犬が地を嗅ぎだす基地の夜の臀部 (〃)
戦跡地のジャズの溺れ化石となる嗚咽 (22歳)
教師仮眠一本の煙草湿る雨期 (〃)
コロコロと腹虫の哭く地球の自転 (23歳)
ネクタイが首絞め戦争の影動く (〃)
ベトナムの空焦げ血を吐きおりる蜘蛛 (24歳)
四・二八祖国復帰県民大会詠
地擦りの熱をためた鎖四・二八の怒気 (〃)
澄み切るまで蝌蚪爆音の田に泳ぐ (〃)
首ふるたび鳩の瞳かげる出兵音 (〃)
ガジュマルの多恨が自縛か不在の主権 (25歳)
教師の饒舌 黒板ふきの腹裂けて (〃)
鳩射った胸に吾子きて泣きじゃくる (〃)
スト決行つぶれ眼の野犬寒波に吠え (〃)
野ざらし氏の残りの3冊の句集についても紹介したいが誌面に限りがあり、残念である。時代と対峙し、既成概念たちに抗ってきた俳人の句集は進化している。新しい俳句の地平は拓かれつつあると感じている。
【参考文献】
・野ざらし延男「新しい地平を拓く」(同人誌「天荒」30号、2008年5月)
・平気武蕉「野ざらし延男序論」「二つの『野ざらし論考』について」
(平気武蕉評論集『文学批判の音域と思想』 2015年3月、出版舎Mugen発行)
【レキオ ポルトガル語で琉球のこと】
レキオスは琉球人。友好的で武器を持たず平和を愛する人達と、トメ・ピレス『東方諸国記』で紹介された。
『東方諸国記』は、マルコ・ポーロの『東方見聞録』に次ぐ、ヨーロッパ人による網羅的な海のシルクロード地誌として知られている。(Weblio辞書沖縄大百科より)
(現代の理論 2017秋号)
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