迷走する人類学者~先住民はどこへ~第12回世界狩猟採集民社会研究会議に参加して(2019年冬)
西原智昭(国際野生生物保全協会コンゴ共和国支部自然環境保全技術顧問)
はじめに
人類学者は、近代文明の影響を強く受けておらず、自然界に強く依存して生活してきた狩猟採集民族など先住民族の研究を実施してきた。それは、「知られざるもの」への好奇に満ちた探究心でもあったが、人類の始原的な生活様式を探る一端として、「人類とは何か」に関する重要な知見を開拓してきた。
筆者も、アフリカ熱帯林に住む先住狩猟採集民ピグミーに関する京都大学教養部時代の講義はいまでも強く印象に残っており、それも人類学を目指した契機の一つとなった。さらに、理学部の学部学生時代から出入りをしていた人類進化論研究室のゼミでは、同じく人類の起源を探る一環としての霊長類研究だけでなく、そうした先住民に関する研究発表がなされ、ぼくを確実に人類学へと導いていった。そこには、生物系とか文化系とかの枠を取り払った、分野や専門にこだわらない学際的な雰囲気に満ちていた。
それから約30年の月日が経過した。ぼくは修士時代から上記研究室の大学院生として、野生ゴリラの研究者としてアフリカ熱帯林地域であるコンゴ共和国に飛び立った。その後いま所属する国際野生生物保全協会に入り、コンゴ共和国だけでなく隣国ガボンの国立公園管理や自然環境保全に関わってきた。
先住民族ピグミーとは森のガイドとして日常的に付き合ってきた。しかしながら、30年の歴史の中で彼らの生活様式は余儀なく変貌してきた。それは森林伐採により彼らの依拠すべき森林が縮小してきただけではない。森林の中での遊動生活から農耕民の住む村での定住化政策、貨幣経済の浸透や近代教育の強制など、要因は様々である。
こうした事態に対して、われわれは何ができるのであろうか。従来人類学者は先住民の生活様式やその伝統文化のあり方を記録してきた。その変貌の経過も多かれ少なかれ知っている。その知見をもとに、先住民族の存続のための手立てを提案することができるのではないか。最新の知見とともにそれを学ぶことができるのではという期待のもとに、2018年7月にマレーシア・ペナン島で開かれた「第12回世界狩猟採集民社会研究会議(XII CHAGS)」に参加した。

CHAGSという会議
ぼくがGHAGSに参加したのは今回が初めてで、これまでそうした会議があることすら知らなかったが、東京大学名誉教授でいらっしゃる尾本恵市氏の紹介で参加のきっかけをいただいた。いまでは極めて稀な存在であるマレー半島在住の先住狩猟採集民も会場に招待されていた。総勢数百人にものぼる会合であった。
会議は7月23日から27日まで行われ、様々なテーマに別れて毎日6~7の異なる会場でのセッションがあった。ぼく自身は「狩猟採集民族の現代的課題」というセッションにて、「アフリカ中央部熱帯林在住ピグミーの伝統文化の急速な変貌」というタイトルで発表しただけでなく、「フィリピンのネグリト族:遺伝的起源、と社会文化的適応、今後の見通し」、「狩猟採集民族の食料安全とその統治権」という二つの異なるセッションでのディスカッサントを依頼された。
ぼく自身の発表は、『現代の理論』2017年秋号の拙小論で書いた内容を短くまとめたもので、コンゴ共和国北東部ピグミーの現状についてである。また、ネグリトのセッションでは、鉱山資源開発などで追いやられるネグリトの状況をも鑑みながら、今後先住民族の存続にとって重要なふたつの論点(①幅広い知見を持つ人類学者こそが今後の先住民の展望へ向けた積極的な提案をしていくべき;②先住民自身が勇気を持って自己主張をしていけるよう、先住民同士の連携やネットワークを構築していく)を提言した。食料安全に関するセッションでは、「狩猟採集民族の依拠する森林が消失していく昨今、彼らの長期的な食料安定を図るには先進国による資源需要を低減させた上で、いかなる資源開発にも環境・社会配慮の認証制度に基づくべきであり、同時に先住民族が自然界の食料などに関する伝統的な知識や技能を継承していけるような手立てを考えなければいけない」というコメント内容をセッション主催者に代理発表をしていただいた。
以下、いくつか印象に残ったセッションを紹介したい。
「狩猟採集社会以降のあるいはそれを維持する新たなツーリズムの役割」
貨幣経済に巻き込まれた狩猟採集民社会において、その経済的自立は重要なテーマの一つである。その中で収入源の一つはそうした先住民族の文化を披露する文化ツーリズムであろう。ただぼく自身は、コンゴ共和国での身近なピグミーの事例から文化ツーリズムの進展に慎重な立場をとっていた。理由は、ピグミーの踊りは見世物のためではない点、手に入った現金の行き先が多くの場合アルコールであり、それがピグミーの社会でこれまでなかった過度な心身荒廃や争い事、非平等などを生み出している点である。そうした観点からこのセッションは魅力的できっと何か新鮮な知見が得られるのではないかという期待があった。
しかしながら、どの発表にも共通に見られたのは「だれが文化ツーリズムのイニシアティブを持っているのか」という点が不明であり、また「収入源によるアルコール問題」について言及がなかったことである。文化ツーリズムが先住民自身のイニシアティブではなく、それをよしとする外部からのトップダウン式の発想に基づいているという印象を受けた。
さらに、ある先住民族の作る伝統的なアクセサリーをツーリストに売るという事例報告はショッキングであった。そうした行為を継続する先住民族の中には、アクセサリーが「売れる」という日常に慣れ、たとえアクセサリーの質を落としても問題なくツーリストに売れることに気づきそれを継続していることだ。文化の質を落としてまで文化ツーリズムを継続する意義はどこにも感じられないと思うのはぼくだけであろうか。それに対し人類学者も特に対処していないというのが遺憾であった。
「ケアを伴う扱い:人間と動物のインターラクション」
狩猟採集民族にとって、野生動物との関わりは必要不可欠なものである。それは狩猟の対象であるだけでなく、宗教的な対象になることもある。場合によっては、狩猟の道具としてしばしば利用される「犬」も日常的なコンパニオンとして重要な存在であろう。
このセッションで特に印象的であったのは、カメルーンの狩猟採集民ピグミーと犬の付き合いについて詳細に調べた研究発表であった。まず犬の名前の付け方に始まり、その犬がどのように彼らのコミュニティの中で位置付けられ、またどのような血縁関係に基づいて犬の譲渡などが起こるかを明らかにした、新たな視点からの研究発表であった。
ただ、別のセッション「動物による人間以外の動物との遭遇」というセッションで、似たような狩猟犬のプレゼンがあったが、ドイツの狩猟犬の訓練の内容で、なぜこれがこの会議で採用されたのか全く意図不明であった。
「狩猟採集民族の音楽:試論」
狩猟採集民族の音楽に関する研究はこれまでも多数行われて来ていたので、何かそれを統合するような新規な議論が展開されるのではという期待をもって参加したが、全く的が外れた。セッション主催者は、先住民族にとって音楽や踊りこそ集団としてのまとまりを示す機能を持ち、その継承こそ彼らの中での教育の場であるといった観点から、音楽や踊りは彼らの社会と深い関係があると述べていながら、各研究者の発表は音楽の事例紹介にとどまるばかりでなく、単に個人的な音楽的な興味から音楽にアプローチしているのではないかと疑いたくなるほどお粗末なものであった。
狩猟採集民族の音楽の伝統における美学、その伝統における喜びや情動の役割、彼らの音楽と政治との関係が今後の課題として挙げられたが、それが達成できるのかあまり期待できるような感触は持ち得なかった。
「狩猟採集民族社会における教育」
ぼく自身は先住民社会において、欧米を起点とする近代学校教育がすべて悪いと考える立場ではない。しかし、そうした近代教育を無反省のまま先住民社会に持ち込むのには常に疑問を抱いていた。コンゴ共和国のピグミーを見ていればそれは明瞭である。いまだに農耕民から差別を受けるピグミーの学童は、学校に行けば農耕民の学童からいじめられる。また学校に行きたくないピグミーの子供の親は警察などから暴力を受ける。また経済的貧困のため、仮に小学生程度の初等教育を終えてもその後の中等・高等教育に進む術もない。最大の論点は、学校が強制的に義務化されている状況の中で、ピグミーの子供が森の中で親から森に関する伝統的知識や技能を継承することができる時間も機会も極めて少なくなっていることである。実際、森のことを知らない若いピグミーの世代が増えていることは事実である。むしろ30年近く森を知るピグミーに教わってきたぼくは、植物の名前やその利用法、森のなかでゾウに出くわしたときの対処法など、いまの若者ピグミーよりも知っていることが多い。
そうした伝統的知識の継承の危機について、カメルーンのピグミーで検証した発表があったので興味を持って聞いたが、どうも調査方法や資料の分析の仕方に問題があったようで、納得の行く内容ではなかった。「若者世代の方が老年世代よりも森の知識が豊富だ」「通学者のピグミーの子供の方が非通学者よりも森のことに詳しい」というあり得ない結果を発表していた。最近のこうした国際会議での発表では、発表者の指導者などが発表者の資料や分析内容をあらかじめ検討する機会もなくなったのかと、レベルの低下を痛感した。
さらにいえば、残念ながらセッションの全体の雰囲気が「近代教育ありき」という前提であった。そのことに疑問を呈する質問やコメントが一つもなかったので、ぼくは次のような提言をしてセッション組織者の口を封じた。「近代教育は欧米で始められたもので、歴史的にもトップダウン方式で先住民に持ち込まれたものである。先進国の中でも今の学校教育のあり方に多くの問題が提示されているのは明瞭であり、その適切な評価もなしに無反省に先住民社会に持ち込むのは無意味である」と。セッションのあとになってその責任者はぼくのところに駆けつけ、「あなたの意見は正論だ。今後の私たちの議論にも注目してもらいたい」とのコメントを受けたが、「正論」も検討されずにこうしたセッションが横行すること自体、会議全体の質を疑った。
最後に
総じて、こうした会議で人類学者が人類学者として従来の役割を失いつつあるとの感を得た。その一つの理由は、人類学でも学問上の細分化が行われ、大きなビジョンで学際的に人類学を駆使し先住民の問題を広く見渡す研究者が少なくなってきたかということであろうか。
(現代の理論 2019冬号)


