賃金が上がっても このままでは「物価と賃金の好循環」は起こらない

定説を疑え! 経済の行方を読み解く (1)

蜂谷 隆(経済ジャーナリスト)

今号から経済コラム欄を担当することになりました。タイトルは「定説を疑え!」です。経済の分析も政府による経済政策も多分に単純化された図式や受けの良いフレーズが先行することが少なくありません。まずは、定説は疑った方が良いと思っています。経済の話題を読み解きます。

ハードルはいくつもある

 「物価と賃金の好循環」―テレビや新聞にこの言葉が登場しない日はない。岸田文雄首相も折に触れ強調している。「物価高を上回る賃上げの実現」によって実質賃金がプラスになれば個人消費が増え、企業は製品の値上げができ収益が増えるので賃上げができる。つまり持続的な経済成長が実現するというわけだ。
 安倍政権の時には「大胆な金融緩和で物価上昇率2%の達成」を叫んだ。そうなれば経済は成長する!という、あのアベノミクスに比べればずっと筋の良い経済政策だが、超えなければならないハードルがいくつもある。
 実質賃金マイナスで個人消費は低迷
 個人消費の現状を見てみよう。第1図は物価の変動を勘案した実質の個人消費(家計最終消費支出)を見たものだが、未だに2010年代の水準に戻っていない。特にコロナ禍後は足踏み状態が続いている。これでは経済が上向くわけがない。


 これは名目賃金が多少上がっても物価がそれ以上に上昇し、実質賃金が落ち込んだためだ。総務省の家計調査によると物価が上がり始めた21年7―9月期以降を見ると、2人以上の世帯のうち勤労者世帯の実質消費支出は、実質賃金の下落に平仄を合わせるように落ち込んでいる。
 個人消費拡大のためには、物価上昇を超える賃上げ、それもベースアップが持続することが不可欠だ。ちなみに厚労省の「毎月勤労統計」の実質賃金指数について1970年まで遡ると、同年から96年までの間は、80年と93年を除きすべて前年比プラスで推移している。実質個人消費支出も75年から92年まで80年を除いてすべて増加している。
 もっとも70年代前半はオイルショックによる極端な物価上昇を上回る賃上げがあり、「物価と賃金の悪循環」として、政府や経済団体は賃上げを抑える「所得政策」をとった。80年代は、経済がバブル化したとはいえ「物価と賃金の好循環」が実現していたといえるだろう。
 同じようになればいいわけだが、経済を取り巻く環境はがらりと変わっている。そのひとつが、生産や消費を支える15―64歳の生産年齢人口が減少に向かっていることだ。24年1月1日の生産年齢人口は7397万2000人。前年比29万1000人減少している。1年で盛岡市に相当する人数が減っていることになる。2030年になると6773万人になる。約624万人の減少である。これに対して1980年代は10年間で707万人増加した。国内市場は確実に縮小しているのである。個々人の消費は増えても市場全体の膨らみは限度があるだろう。

中小企業の生産性に課題

 もうひとつ問題がある。持続的な賃上げのためには、企業の労働生産性を上げる必要があることだ。これは当たり前で、利益が出なければ高めの賃上げはできない。いくら人手不足で賃金相場が上がっても限度がある。
 日本企業の労働生産性はG7の中で断トツの最下位が続いている。1993年からなので構造的な問題を抱えているといえるだろう。
 しかも中小企業の労働生産性は大企業の半分以下だ。さらに中小企業は、原材料費が上がっても大企業向けに部品などを供給する場合、価格転嫁ができないという問題を抱えている。日本の従業員数の約7割が中小企業で働いている。持続的に賃上げをするためには、中小企業の労働生産性を上げるだけでなく製品価格の転嫁がカギとなる。
 生産性が高まらないと賃金を上げることはできない。確かにその通りだ。しかし、大企業はどうだろうか。大企業それも輸出型の大企業は、円安を追い風にこの10年高い利益を得てきたが、賃上げを抑え内部留保として貯め込んできた。
 賃上げをするためには利益は必要だ。しかし、企業は利益が増えたからといって自動的に賃上げを行うわけではない。賃上げが次の利益につながるという確信があって初めて高い賃上げが続くのである。
 以上の点を整理すると、個人消費が増えれば設備投資も増加する。そうなれば内需に軸足を置いた経済となるので、世界経済の大きな変動(例えばリーマン・ショック)の影響が受けにくくなり経済は安定する。方向性としては正しいのだが、実質賃金のプラスを持続化させるためには企業の生産性の向上が不可欠なうえ、増えた利益を確実に賃上げに振り向けることが必要だ。しかも生産年齢人口減少というマイナス要素を超えなければならない。

 「好循環」で格差は広がる

 これらの点をすべて突破して「物価と賃金の好循環」が実現できたとして、そこに現れる世界はどんな風景なのか。第2図は所得階層別消費支出の内訳である。基礎的支出というのは食料、家賃、光熱費、保健医療サービスなど生活必需品で、選択的支出は教養娯楽費、耐久財、教育費、月謝などである。ぜいたく品とも言われている。

 この分類は問題がないわけではない。三越のデパ地下で1個2500円の梨を買っても生活必需品、逆に子どもを塾に通わせるとぜいたく品となる。それでも低所得者層である年収300万円以下の世帯の生活必需品は74%、所得の低い中間層である年収300万円から500万円の世帯は67%と極めて高い。
 しかも物価は日常的に購入する生活必需品の方が上がっている。総務省の消費者物価指数によると、基礎的支出項目は2020年平均を100とすると23年12月は110・9だが、選択的支出項目は103・6にとどまっている(第3図)。実質賃金が増えれば低賃金の家庭も選択的支出が増え、生活の余裕度は多少増すと見られる。

 しかし、ここで考えてみたいのは格差だ。失われた30年の中で中間層は崩壊し、低所得者層や所得の低い中間層は増加し、格差は拡大した。「物価と賃金の好循環」によって格差は縮小するのだろうか。
 残念ながら格差は縮小するどころか拡大してしまう。というのは、大企業の正社員中心の連合や厚労省の春闘回答の集計だけでなく、中小零細企業まで含めた「毎月勤労統計」の賃金上昇率はあくまで「平均」だからだ。名目の「平均」賃金が物価上昇率を上回っても、中小企業の賃上げ率は下回っている可能性が高い。
 しかも同じ5%の賃上げがあっても例えば月給50万円の人と20万円の人は、差は30万円から31・5万円に広がる。差を30万円のままにするためには、20万円の人は12・5%の賃上げを実現しなければならない。
 つまり中小企業や非正規の労働者の賃上げをより高くしなければ格差は是正されない。しかし、中小企業の労働生産性を考えれば厳しいのが現実だろう。実質賃金が持続的に続き消費が活性化し経済が成長しても、低所得者や所得の低い中間層が置いてきぼりにされるのであれば、何のための経済成長か、ということになる。

低所得者層の底上げが課題

 人手不足を背景に飲食業や宿泊業のパートタイマーや派遣社員などの時給は上昇しているが、ボーナスは超低額、退職金は雀の涙のままだ。必要なのは働く時間以外は正社員と同待遇という「パート社員」制度の創設など、非正規雇用という働き方にメスを入れることである。
 併せて政府による底上げ政策が必要となる。具体的にはEU諸国のように家賃補助を行うための「住宅手当」や公共住宅の整備、就学前保育の完全無償化、大学教育の無償化などである。財源は法人税率のアップ、富裕層や高額所得者を対象とした金融所得課税の強化と消費税率のアップである。このあたりは別途提起したい。
 さて23年10―12月の実質成長率は前期比年率換算でマイナス0・4%、家計最終消費支出はマイナス1%だった。成長率に対する寄与度を見ると外需(輸出―輸入)が0・7%、そのうち輸出は2・3%となっている。国内需要はマイナス1・1%、家計最終消費支出(個人消費)の寄与度はマイナス0・5%。相変わらずの輸出頼みだ。24年1―3月期もマイナス成長になると見られる。「春闘の高い回答がすべてを変える!」はというわけにはいかないだろう。

(現代の理論2024春号)