いつ、どこに自由があったのか③ そこに本があった 2023年夏

落合恵子(作家・クレヨンハウス主宰)

 WE ARE WHAT WE EAT.ひとはそのひとが食べたものでできている……。あまりにも広く人口に膾炙したこのフレーズをもじって、わたしの本屋の壁には、次のようなフレーズが記されている。
 WE ARE WHAT WE READ.
 わたしたちは、わたしたちひとりひとりが読んだ本でできている、という意味だ。
 書店をやっていると、週にほぼ2回(増えることもある)、決まった曜日に発注した本がダンボールでどかんと入荷する。どきどき、わくわくの曜日である。
 クレヨンハウスでは、いわゆる子どもの本と呼ばれる絵本や児童図書、ヤングアダルトの読みもの等が入荷する日は、スタッフが大忙しとなる。発注した本が正しく入荷しているか、それぞれの冊数にミスはないか、お客様からの注文、いわゆる「客注」の本ももれていないかなど、オープン前の検品にとらわれる。
 そして一冊ずつ棚ざし(書棚に背表紙を見せてさすこと)したり、新しく刊行する本に事前に目を通して発注するものを決めるスタッフミーティングの結果、これはどうしてもと思う本は、平台に並べる。どの本を平台に並べるか。限られたスペースで、平台に置ける冊数には限りがあり、スタッフそれぞれ好きな作家、好きな本があり、時には熾烈なる「陣地とりゲーム」がある。というか、あったほうがその本に対する熱い思いがあり、専門書店としては大歓迎、だとわたしは考えている。
 こうして、吉祥寺店の2階のワンフロアはこれらの本の、しばしの「居場所」となる。入荷する前に熱心な読者から、予約の電話が入る場合もある。一方、なかなかお客様が手にとってはくれない本もあり……。よし、ここが専門書店の腕の見せどころ。丁寧に、けれどシンプルにコピーを書いて、アピールするのも彼女たちの仕事だ。    
 時々は作者・著者から「私の新刊、どう?」。  
 問い合わせを受けて、うっ、と詰まる瞬間もあるが、だいたいは予想した通りに動いてくれる。

 ご存じだと思うが、本は1冊売れてほぼ2割、20パーセント弱が書店の収入。いまは17・8パーセントが収益。いわば、かなり率の悪い商い、と言える。そのうえスマホ全盛で、本を読むひとが減少していることは朝夕の電車でもバスに乗っても明らかだ。
 47年前、クレヨンハウスをオープンした時、全国にあった、書店がいまは1万店を切ってしまった。一冊一冊、店主が心をこめて選書している、という書店の減少も甚だしい。
 だから、であるのだ。わたしは書店を続けたい。40数年前からやっていた表参道のビルの老朽化に並行するように年を重ねたわたしの健康を気遣って、78歳で一区切りをつけるかもしれない、と予想したひともいたようだ。が、選挙の結果同様、予想を裏切るのは楽しいことではないか。
 いまが本全盛の時代であるなら、わたしは間違いなくやめていた。どうぞ、と専門書店の椅子はほかに譲っていただろう。が、スマホ全盛の時代であり、本を開かないひと、新聞をとらない、読まないひとも増えている。だから、わたしは本屋を続ける。へそ曲がりなのだ。
 デモを呼びかけるたびに、実際に参加してささやかなスピーチをするたびに、わたし個人というよりも、書店のほうが幾度となく危険なメに遭ってきた。お客様やスタッフに何かあってはならない、とどれほど注意し、けれどどこまでいってもこれでよし、という安心安全にたどり着けることはなかった。街中に溢れる監視カメラ。プライバシーと肖像権を著しく侵害している。当然わたしは反対だが、クレヨンハウス店内にもいろいろな工夫のもと、それらは多々ある。詳しく説明する気はないが、オープンスペースを持ったことを苦々しく思うのは、こんな時だ。しかし、だからといって、やめるか? やめられるか?
 いや。こんな時代だからこそ、だから、わたしは本屋を続ける。生々しい言葉で申し訳ないが、死ぬまでオープンする、と決めたのだ。

 国会を無視し、閣議決定でなにもかもきめていく流れが本流となったこの国の政治。防衛政策の大転換で、防衛予算は2027年度まで5年間で43兆円を確保するとされている。
 さきの広島でのG7サミット。語感として、自分たちを、あるいは存在するその場を「サミット・頂上」と呼んで憚らない神経がわたしにはどうにも理解できないが、それはまた別の機会に触れたい。
 核保有国3国と米国の核に傘のもとにいる4国が打ち揃って盛り上げる、テーマ「核なき世界」。ひととしての羞恥心を求めても無理かもしれないし、だからこそか、「サミット、頂上」と呼ばれて平然としていられるのかもしれないが……。
 3年半ぐらい前に帰国(と言っていいのか?)された時に、サーロー節子さんにクレヨンハウス主催で講演をしていただいた。堂々としていて、確かで誠実なサーローさんの熱い、核なき世界への希求と、それを決して願いでは終わらせない、とする覚悟を考えると、なんともせつない。
 講演をされていない時、インタビューを受けていない時、ひとりのご自分自身に戻られた彼女は、穏やかで静かで明るいチャーミングな存在だ。そして、どちらかというと、シャイなかただった。けれどマイクを向けられ、カメラが回ると、声のボリュームさえもミッションを帯びる。それは戦争被爆者として、「ここで言わなければ」、「ここで呼びかけなければ」という、自らとの約束が彼女の背を押しているからだろう。いつも思う。わたしたちひとりひとりは彼女の声に被爆国の一市民として、どれだけ応えられているだろうか、と。
 こんな時代、こんな社会だからこそ、ささやかすぎる実行でしかないが、わたしは専門書店を続けよう。たとえそれが少数派であっても(たぶんそうだろう)、立ち止まり、考え、さらに考えを深めて、誰のものでもない「自前の」思想と姿勢(というと多少大げさだが)に辿り着くことを求めるひとがいる限り。わたしも、そのひとりでありたい。
 吉祥寺に移転したクレヨンハウスの中の小さな空間で、わたしはわたしだけの、別の書店を並行してオープンした。地下の空間である。年齢制限なし、の本である。地下の小さな空間は、反戦・平和・反差別・反原発などのテーマの本を集め、時々は講演会場やギャラリーとしても使える「未完の本屋」と命名した。「いまは、未完です」という札をさげていたいのだが、それがそのままこの空間の名前となった。
 そうだ、いつだって人生ってやつは未完なのだし。だからひとは本を開きたいと思うのだろうし。かといって本の中にこれという答えはないし……。この「未完の本屋」にあるのは、たっぷりの自由だけ。未完の本屋とは、だから、過程の本屋でもある、と。怒りの貯水池と呼ばれたリリアン・ヘルマンのノンフィクションとフィクションを往復する書名は『未完の女』だったなぁ、と思いながら。

(現代の理論 2023夏号)

©神ノ川智早