孤高の人 古川純

山田 勝(運営委員・『言論空間』編集長)

 古川さんの略歴を見ると1966年東大卒・同年助手、69年まで。70年東経大専任講師、76年助教授、(中略)1988年専修大学教授とある。私は1964年東大に入学し、7年間大学にいたことになるので、古川さんとは大学の一時期(駒場・本郷)で交差し、1972年前後して、別々の道を歩みだし、長い時間が経過した。ある時、偶然地下鉄神保町駅付近の交差点でばったりと出会った。運命に引き寄せられるかのように、人生の最終の大仕事の局面(NPO設立、『現代の理論』発行の時期)で、再び、一緒に仕事をすることになった。NPOがキー概念であった。私は尊敬を込めて、古川さんは「孤高の人」であったと思う。仮に「市民」を広い意味での公的な事柄に関与する一人ひとりの人々とすると、古川さんは憲法学者の枠を超えた、市民・古川純を貫き通したのではないかと思う。

 1966年4月古川さんが助手になった時、私は本郷に進学し、古川さんがリーダーであった憲法研究会に参加した。これから法学部の授業を受け、勉学に努めるかという若い時代の私にとって、古川さんはまぶしい存在であった。大学院を飛ばしていきなり助手になり、教授への階段を進みだしていたのであるから、雲の上の存在と思えた。

 憲法研には故仙谷由人をはじめ、さまざまな友人が古川さんの薫陶を受けていた。多分、1966年、67年、68年6月15日までの約2年間は憲法研の活動も含めて平穏で、楽しい学園生活であった。私自身は68年に入り、医学部でのインターン制度反対の闘いの拡大を見てはいたが、依然として「医学部」の問題と理解していた。事態が突如一変した。6月15日医学部の学生部隊が安田講堂を占拠し、大学当局が機動隊を導入してこれを排除したこと、そして当時私の友人たちが駒場・教養学部自治会執行部になったばかりで、(当然のように)機動隊導入反対で約2千名の大部隊が本郷に登場、イチョウ並木通りがデモで埋まった。東大闘争が始まった。

 全共闘と機動隊との安田講堂の攻防映像はこの東大闘争の一場面であり、その象徴であった。若い世代の人々にとってはすでに歴史の一コマに過ぎないが、この学園闘争の激しさは映像の激しさだけではなく、闘争に参加した関係者の内面に突き刺さり、それぞれの人生の生き方に強い衝撃を与え続けた。東大憲法学の将来を嘱望された助手の古川さんは東大を去った。

 古川さんは『大学革命の原理』(安藤紀典著、合同出版)に強い関心を持っており、当時確か日本評論社から大学闘争に関する資料も含めた出版物を出したと記憶している。古川さんは非売品ではあったが「入管闘争」に関する厚い資料集を編集し、反軍兵士小西誠の裁判支援(当時は兵士の権利を認める憲法学者は少なかった)を支え続けた。古川さんは一貫して個人の権利を擁護し、闘い続けた憲法学者であった。沖縄(琉球)に関心を持ち続け、石垣島の方々との文化・芸能・学術交流と研究、大田昌秀元沖縄知事、仲地博元沖縄大学学長など憲法関連の方々との深い交流は今日まで続いてきた。当時72年沖縄返還は琉球処分ではないかとの厳しい政府批判は、同時にヤマトの運動サイドの思想のあり方を厳しく問い直し続けた一人であった。

 古川さんにとって、東大闘争はあくまでも教育学園闘争が主であり、政治闘争の側面は従であった。市民社会を構成する一人ひとりの基本的人権を追求し、支援し、それぞれの自立を促し、論理化することで、社会変革の道を追求し続けた数少ない憲法学者であった。東大闘争の原点を教育・学園闘争と見定め、この原点を生涯追及し続けた。古川さんのことだから、どこにいても妥協することなく、自分のやり方で自分の道を歩き続けたのではないかと思う。孤高の人たるゆえんである。大学時代に古川さんが私につけたあだ名がある、三角眼(まなこ)の山田、ある高原の合宿の時であった。政治を重視していた私が、激派に走りだす予感を感じていたのであろうか。確かに私は体重も60キロ以下の細身で目つきも悪く、論敵を屈服させるような気性の激しさがあった。

 古川さん、長い間ありがとうございました。ゆっくり休んでください。あの世で三度目の出会いを希望します。合掌。