2024年9月号:オリンピック雑感あれやこれも

【寄稿】
佐渡金山の世界遺産登録と朝鮮人強制労働の歴史

【声明】
雑誌『現代の理論』題字(タイトル)変更にあたって

【案内】
「アフリカの森の民・ピグミー」招聘

【書評】
小林恭子著『なぜBBCだけが伝えられるのか』

【巻頭コラム】オリンピック雑感あれやこれも

 2024年のパリ五輪は7月26日~8月11日に開催された。花の都パリでということで開会式と閉会式の演出にも注目されたが、やはり一般の関心は日本選手が活躍する競技に集まり、メディアもメダル獲得に焦点を絞った。

 そのせいか、マルクス研究者斉藤孝平氏はテレビで「五輪は全然見ていない。反五輪でボイコット」とコメントしたというが、俗人の私はオリンピック開催前後にかなりの時間、テレビで実況やダイジェストを観て過ごしてしまった。

  『現代の理論』夏号には「『エモい記事』から見えるデジタル記事と新聞の危うさ」という論考が載っている。最近の新聞はSNSに倣って、事実の究明や報告より読者の情に訴える物語的な記事が多くなっているが、これはジャーナリズムとしての新聞の危機ではないか、との訴えである。ことスポーツ報道になれば、ましてオリンピックともなれば、テレビやSNSでは美談に終わるエモい物語創りが花盛りである。その最大の失敗作が大谷翔平選手と水原一平通訳との友情物語であったが、このオリンピックでは連続兄妹同時金メダルを期待された阿部一二三・詩選手の兄妹の絆であろう。物語のクライマックスで阿部詩選手が敗れメダルなしに終わったからである。ハッピーエンドで終わると信じていた詩選手は敗北を信じられず、会場に響くような大声で泣きだした。その様は、欲しいものが買ってもらえず大声で泣き叫び続ける幼児のごときだった。コーチ陣もそんな彼女をたしなめ叱ることもなく泣き叫ぶがままにした。ある意味、嘉納治五郎なら眉を顰めるような日本柔道の恥であるにもかかわらず、である。マスコミは、金メダルに賭けた彼女の努力を強調することで、その悔しさに同情を示すことでエモい物語を締めくくったが、勝つための努力や負けた時の悔しさはオリンピックに出てくる選手ならば誰もが同じのはずである。その点、フリースタイルのレスリングで銀メダルに甘んじた74キロ級の高谷大地選手は、決勝で負けはしたが、終了後に勝者ジャマロフ選手を抱き上げて場内に向けてその勝利を祝福した。また、スケートボードやブレイキンなど若者たちの新しい種目では、競技終了後にそれまで競っていた選手同士が勝者を祝福し合う光景が何度も見られた。服装もユニホームなしの自由だし、勝ってもやたら国旗を見せつけることもなく、プレーにだけ集中しているのも新鮮だった。

 とはいえ、オリンピックを迎えるたびに感じるのはスポーツの商業化による2極分化だ。従来スポーツは楽しみながら自ら行うものだった。私の子供の頃は、学校の昼休みや放課後、休みの日など、空地や公園、体育館で、野球やバレー、バスケ、バトミントンなどを仲間で楽しんだ。それがいつのまにかスポーツは選ばれたものたちの活躍を観るものになってしまった。

 見せる側に立ったスポーツ選手はそれなりの修練が不可欠となるが、五輪代表ともなれば幼児期から始めなければそこまで至れないのが現実である。そのためには親に経済的余裕があることが前提となる。かくて、親の経済力が学力の格差、さらには社会的格差と分断を助長させているように、スポーツの世界でも同じ状況が進行しつつある。かってのようにハングリー精神がスポーツ選手を支えていた懐かしい時代はもう終わってしまったのか!?(運営委員  牧梶郎)