歴史劇を創作する上での責任と覚悟 比較検証―映画『開戦前夜』・フジテレビドラマ『昭和16年の敗戦』

加田 さい(フリー編集者/『言論空間』編集委員)

 巨大プロジェクトの欠陥や事業の破綻が事前にデータで判明していながら、役員のメンツや「ここまで予算を投じたのだからいまさら引けない」という同調圧力によって撤退できず、致命的な巨額損失や不祥事へと突き進む。あるいは、SNSによってかつてないスピードで異論を許さない風潮が加速し、客観的なファクトを無視した感情論だけで社会の重大な方針が決定される。こうした光景は、現代社会において決して珍しいものではない。合理的な思考ができるはずの優秀な人材が集まりながら、なぜ組織や社会はシステムごと破滅へ向かってしまうのか――。現在、劇場で公開され大きな話題を呼んでいる映画『開戦前夜』(石井裕也監督)は、まさにこの構造的病理を浮き彫りにした作品だ。本作は、日米開戦の直前、総理大臣直轄の研究機関「総力戦研究所」において、若きエリートたちが机上演習(シミュレーション)を行い、敗戦に至る未来の日本を的確に予想したという史実をベースにしている。

 現代に通じるテーマ性と従来の戦争映画とは一線を画す視点の新鮮さで称賛を集める本作だが、一方で「歴史の恣意的な改変」という極めて重大な問題が指摘され、訴訟沙汰にまで発展している。

 ところで映画の原案である猪瀬直樹氏のノンフィクション『昭和16年夏の敗戦』の映像化作品は、実は本作が初めてではない。いまから35年前の1991年、フジテレビが『開戦五十年特別企画・昭和16年の敗戦』(1991年12月放送/脚本:長坂秀佳、監督:木下亮、制作:東宝、フジテレビ)としてドラマ化している。両作は同じ史実を扱いながら、歴史へのアプローチも、そして「戦争の責任」に対するスタンスも大きく異なっている。本稿では、映画『開戦前夜』とフジテレビ版ドラマを比較し、歴史をフィクションとして描く際に求められる“覚悟”について論じてみたい。

「実録」の看板を下ろしたNHKドラマ

 まず、映画の元となったNHKスペシャルのドラマ『シミュレーション』に端を発する訴訟問題について整理しよう。

 1940年(昭和15年)秋に設立され、翌年4月、官僚、軍人、民間企業から選抜された30代のエリートたちを集めてスタートした総力戦研究所は、その後、メンバーで「模擬内閣」を組織し、対米戦争の行方をシミュレートした。膨大なデータを積み上げ、国力の格差、資源枯渇の度合い、輸送船舶の喪失量、石油備蓄の限界、さらには食糧不足に伴う国民生活の困窮といった要素を冷徹に計算した彼らが導き出したのは、「日本必敗」という結論だった。しかし、その合理的な予測は、政府や軍の責任回避、戦争を支持する大衆の熱狂によって押しつぶされる。そして同調圧力が支配する“空気”の中で、いつしか日本は誰にも止められない破滅的な戦争へと突入していく。

 この悲劇を描いたNHKのドラマ『シミュレーション~昭和16年夏の敗戦~』(2025年8月放送)に対し、実在した総力戦研究所の初代所長・飯村穣(じょう)陸軍中将の孫である元駐フランス大使の飯村豊氏が、2025年12月、NHKや制作会社、石井監督らを相手取り、名誉毀損及び遺族の「敬愛追慕の情」の侵害による損害賠償、ドラマに約40分の追加シーンを加えた劇場版『開戦前夜』の公開差し止めを求める訴訟を起こした。

 原告側の主張をまとめたサイト(「総力戦研究所2.0」https://www.totalwarri2.com/)によれば、実在の飯村中将は若き研究生たちに自由闊達な議論を奨励し、彼らが導き出した結論を政府へ報告させた極めて開明的な人物であり、日米開戦を深く憂慮していたとされる。原案の『昭和16年夏の敗戦』の中でも、そのように描かれている。しかし、ドラマ『シミュレーション』の所長「板倉大道少将」(國村隼)は、これとは真逆の人物に設定されている。板倉は東條英機陸軍大臣が演習に興味を持っていると知るや、「俺たちはその期待に応えねばならない」と部下に忖度を強要するばかりか、開戦回避を強く主張する研究生を見せしめに召集して戦場へ送り込むという、典型的な「悪の軍人」として造形されているのだ。

 同作は当初、「実録ドラマ」と銘打って宣伝されていた。しかし放送直前、内容を知った飯村氏からの抗議を受け、「実在した総力戦研究所に着想を得た」フィクションへと変更され、さらに本編最後の約10分間のドキュメンタリーパートで「実際の所長は自由な議論を推奨していた」という趣旨の補足説明を急遽挿入した経緯がある。遺族は、この過程におけるNHKや制作陣の不誠実な対応も強く非難している。

 裁判の焦点は、架空の名称を与えられた「板倉少将」が、実在の飯村中将であると一般視聴者(観客)に認識される「同定可能性」があるか、そして、実在の人物を真逆に歪めて描くことが遺族の受忍限度を超えた違法な権利侵害に当たるか否か、である。映画『開戦前夜』の製作委員会と石井監督は「板倉は名前も階級も異なる架空の人物であり、実在人物を再現したものではない」「映画版ではフィクションであることを示す表示や、実在人物との混同を避ける措置を取った」と反論し、「表現の自由」を理由に2026年7月に映画の公開に踏み切った。

 しかし、「NHKスペシャル」という報道番組の枠組みから出発し、実在の組織と史実を前面に出しながら、特定可能なトップの存在を「架空人物」だと強弁して恣意的に悪役化することは、果たして「表現の自由」の許容範囲と言えるのだろうか。

真の恐怖を覆い隠す「安易な二元論」

 『開戦前夜』という作品単体を見れば、評価すべき点は少なくない。エリートたちに扮した俳優陣による白熱した議論の場での演技は見応えがあり、また、東條英機(佐藤浩市)が天皇の意向と暴走する軍部の板挟みとなり、深く苦悩する姿は従来の単純なA級戦犯像を脱却したものとして興味深い。ただし、この東條の人間的な葛藤自体は原案で緻密に描かれている史実の解釈であり、映画独自の視座ではない。

 本作の最大の問題は、物語の対立構造を分かりやすくするために、所長や軍を単なる「悪人」に仕立て上げてしまった点にある。「軍=理不尽な絶対悪」「それに抗う若きエリート=善」という、戦後民主主義の文脈で好まれてきた分かりやすい二元論に当てはめてしまった結果、「合理的な思考ができる優秀なエリートたちが集まり、その判断により負けると分かっていたのに、なぜシステムごと破滅へと突き進んでしまったのか」という、本作がもっとも描くべき真の恐怖が決定的にぼやけてしまっているのだ。

 極めて皮肉なのは、飯村豊氏からの抗議があり、NHK内部でも「報道番組の枠で史実とかなり異なる脚色のドラマを放送すること」への懸念があったにもかかわらず、すでに作品が完成し、制作が進んでいたため誰も放送を止めることができず、さらにはその反省や検証もなく映画の製作委員会が公開を強行した事実だ。「問題があるのは認識されていたのに、当事者の誰も“空気”に抗えず止めることができなかった」という、映画がテーマとして描こうとした「暴走するシステム」の構造が、図らずも現実の制作・公開プロセスにおいてグロテスクなまでに再現されてしまったのである。

「忘れられた映像化作品」の誠実さ

 35年前に放送されたフジテレビ版のドラマは、現在の一連の議論の中でほとんど言及されず、忘れ去られている印象さえある。しかし、アプローチが大きく異なる両者を比較すると、『開戦前夜』が抱える歪みがより明確に浮かび上がってくる。

 第一の違いは、「歴史の全体像」が提示されているか否かという点だ。フジテレビ版は、1941年4月に松岡洋右外相(戸浦六宏)がほぼ独断で日ソ中立条約を結び、それが結果的に日本の南進への道を開いてしまったこと、そして、水面下で作成され、当初は陸軍・海軍も賛成していた和平案「日米諒解案」が松岡の暴走によって頓挫し、国が自ら退路を断っていく歴史的背景が物語の前提として描かれている。対して『開戦前夜』は、総力戦研究所の机上演習と東條の逡巡という局所的なドラマに焦点を当て過ぎたため、当時の日本を取り巻く情勢が掴みづらく、観客に歴史を誤解させかねない作りとなっている。

 第二に、研究所と研究生たちの描写である。現実の総力戦研究所はシンクタンクであると同時に将来の幹部を育成する「学校」と位置づけられていた。フジテレビ版はこの史実を踏まえており、前半で研究生たちの面接や体力検査、時間割に縛られた授業などが詳細に描写される。『開戦前夜』では、入所直後からすぐに首相官邸での研究発表へ向けた机上演習が始まったかのように描かれているが、実際は、数ヵ月の座学や研修期間があった。

 机上演習の見せ方も対照的だ。『開戦前夜』は、見学席のある広い会議室の中央に巨大な地図が広げられ、研究生が動き回りながら議論するという大がかりな演劇的設定を採用している。一方のフジテレビ版は、史実に即し、狭い教室内で男たちが机を向かい合わせて地道な討論を重ねる密室劇のスタイルを貫く。劇中では、主人公の模擬内閣総理大臣・久保山亮一(中村雅俊)ら数名を除き、当初はほとんどが開戦を支持していた。しかし、教官である統監部(現実の大本営に当たる)から出された想定課題を冷静に分析する中で次第に形勢が逆転する。緊迫した密室の中で論理が感情を凌駕し、「開戦不可」が大勢を占めていく過程は、名作『十二人の怒れる男』を彷彿とさせる。

 そして何より、所長の描写が完全に真逆なのだ。フジテレビ版の所長「飯田千太郎中将」(田村高廣)は、昔ながらの実直な軍人気質でありながら豪胆で洒脱な一面を持つ人物であり、研究生たちの自由な議論を強く後押しする。近衛文麿首相(仲谷昇)の腹心として、模擬内閣が導き出した客観的データを根拠に戦争回避を図ろうと奔走する彼は、軍の威光を振りかざして圧力をかける『開戦前夜』の板倉少将とは正反対のキャラクターである。

 加えていえば、フジテレビ版は、冒頭に各研究生が職場で出向辞令を受ける場面を挿入し、視聴者が彼らのバックボーンを想像しやすい作りになっている。この点も各人の背景描写が希薄な『開戦前夜』とは対照的だ。

 ちなみに、『開戦前夜』の主人公である総理役・宇治田洋一(池松壮亮)は、実際の模擬内閣の総理役であった窪田角一と同じ産業組合中央金庫(農林中央金庫の前身)の職員だが、フジテレビ版の久保山は南満洲鉄道(満鉄)の社員という設定になっている。ただし家族構成については、妻と2人の息子がいた点など、久保山の方が窪田に近い(『開戦前夜』の宇治田は弟や妹、姪と同居するという創作がなされている)。フジテレビ版が主人公を「大陸にいた民間会社出身」へ変更したのには明確な理由があるが、それについては後述する。

 史実の空白をどう埋めるか

 フジテレビ版において、日米開戦の鍵を握る悪役的な存在として描かれるのは、現場の軍人ではなく為政者たちである。一人は前述の松岡外相、そしてもう一人は近衛首相だ。

 劇中、近衛は米国の経済制裁を見越し、対米強硬派の松岡外相を更迭するため内閣総辞職を経て第三次近衛内閣を組閣する。そして、研究生たちに「日本必敗」の客観的結論を出させ、それを閣僚の前で発表させることで軍部を説得しようと画策する。しかし、そこには「主戦論が高まる中、自らの政治判断で米国に譲歩して泥を被りたくない」という姑息な計算があった。その自己保身を見抜いた東條英機陸相(高松英郎)から「米国との戦争に反対なら、ご自分でおっしゃればいい」と冷徹に進言された近衛は動揺し、発表会直前になって飯田所長に「『日本必敗』という結論は伏せ、数字のデータだけ提示するように」と命じる。

 近衛の変節によって梯子を外された飯田所長は、苦悩の末、研究生たちに土下座して詫び、数字だけの報告にとどめるよう乞う。しかし発表会の場では、久保山が閣僚の前で「日本は負けます」と言い放つ。統監部の教官たちが制止しようとするが、飯田所長はそれを抑え、久保山に最後まで語らせる。

 史実を見ると、現実の飯村所長は発表会の後、研究生たちの出した結論に対して「戦争の本質や総力戦の原則を十分に理解していない」と厳しい講評を下したと記録されている。自由な議論を促し、戦争回避を模索していたはずの彼が、なぜ最後に若者たちを突き放すような言葉を残したのか。この謎については、「軍上層部の反発から研究生たちを守るためのポーズだった」「軍人という立場上、数値化できない精神論に触れざるを得なかった」など、さまざまな推測が成り立つ。

 フジテレビ版は、こうした「歴史の空白(ミッシングリンク)」を埋めるために、「近衛の裏切り」とそれに伴う「所長の苦渋の決断」という独自のフィクションを盛り込んだ。この創作は、「総理直轄の機関が出した正確な予測が、なぜ実際の国策に生かされなかったのか」という疑問に対する、ドラマとしてのひとつの解答になっている。

 これに対して『開戦前夜』の手法はどうだろうか。物語の対立構造を単純化するため、実在のモデルがいる所長を安易な悪役に改竄し、史実もテーマも歪めてしまった。そこには、歴史劇を創造する上での誠実な“覚悟”が欠落していると思わざるを得ない。

 もちろん、遠い過去を舞台にした娯楽としての「時代劇」であれば、大胆な脚色や勧善懲悪の分かりやすい対立構造を持ち込むことも許容されるだろう。しかし、本作が扱うアジア・太平洋戦争の歴史は、現代の日本の成り立ちや政治課題、さらには近隣諸国との外交関係にも直接的に地続きとなっている。よって近現代史を扱うフィクションは、過去の事実をどのように解釈し提示するかが、そのまま「私たちがいまをどう生きるべきか」という社会へのメッセージになり得る。だからこそ、実在の人物の尊厳や史実の複雑さを安易にエンターテインメントとして消費・改変してはならないのだ。『開戦前夜』は、この「現代に直結する歴史ドラマ」と「娯楽としての時代劇」の境界線を混同してしまっているのではないかとさえ思えてくる。

日本の「加害責任」を問う

 では、フジテレビ版が歴史に対して完全に中立であったかといえば、そうではない。それは主人公・久保山が強硬に開戦反対を貫く背景として語られる「昭和12年に南京で日本軍による民間人虐殺(南京事件)を直接目撃していた」という設定からも明らかだ。

 戦争を回避するための「大陸からの撤兵」という選択について、「国のため殉じた若い命を犬死にさせたことになる(ゆえにあり得ない)」と主張する統監部(教官)に対し、久保山は激高し、こう反論する。「何がお国のためですか。10万の日本兵が死んだ? じゃあ、中国人は? 何もしていないのに、しかも自分の土地で、その何倍もの人々が殺されたんですよ。日本軍は、他人の土地に押し入って殺したんです。それがお国のためですか? 南京で日本軍がしたことを知っていますか。 無抵抗の婦女子を犯し、妊婦の腹を切り裂き、放り上げた赤ん坊を銃剣で串刺しにした。日本軍は15万の中国人市民を虐殺した……。血刀を下げて、他国へ押し入りその国の人々の首をハネるのが、その日本の、お国のためなんですか?」。

 さらに久保山は、満蒙開拓団についても農民から土地を奪い奴隷のように扱ったと吐き捨てる。彼を「満鉄社員」に設定したのは、大陸での日本の蛮行を直接的に語らせるための脚色と考えられる。

 日本軍の加害性を指摘する場面は他にもある。米軍による日本本土への空襲の予測について議論する際、模擬内閣の陸軍大臣役が「都市への無差別爆撃は国際法違反だからあり得ない」と断じるが、海軍大臣役は「我が国は、その戦時国際法を守ったことがあるのか。南京や重慶を無差別爆撃したのはどこの誰だ」と冷静に言い返す。南進の目的に掲げた「資源確保」を、「正確には侵略」と指弾する下りもある。

 これら原作にはない大きな脚色は、放送当時の日本の政治状況と、それに伴う社会全体のアジア・太平洋戦争に対する歴史認識が色濃く反映されたものと考えられる。1991年12月は、海部俊樹首相が退陣し、宮澤喜一内閣が誕生したばかり。その後、自社さ政権が誕生し、1995年の戦後50年「村山談話」へ連なる、戦後政治の大きな転換期であった。主要な中学歴史教科書で、南京事件や従軍慰安婦などの記述が増え、1970年代以降高まっていった日本の「戦争加害」に対する反省の世論が、もっとも強まっていた時期である。つまり本作の「加害性の告発」という脚色は、時代の産物という側面もある。

 しかし、その底流には、「日本の侵略と加害行為こそが戦争の本質であり、侵略で得た権益を放棄しない限り開戦は避けられなかった」という、制作者側の強固な歴史観が存在する。これを単なる陳腐なイデオロギーと切り捨て、『開戦前夜』における安易な捏造と同列に扱うことはできないと考える。そこには歴史の真実と真正面から向き合おうとする確かな“覚悟”が見えるからだ。

 残念ながら、アジア・太平洋戦争に対する政権の姿勢や、教育、メディア含めた社会の歴史認識が、1991年とは確実に変化してしまった現在において、日本の加害性(とくに南京虐殺の犠牲者数を明言している部分)に深く斬りこんだこのドラマの再放送や配信は、極めて難しいだろう。

「表現の自由」が負うべき倫理

 フジテレビ版の冒頭と結末には、「私たちはその時何をなすべきだったのか?」という問いかけがテロップで掲げられる。作り手は、その質問に対する真摯な模索を、物語全体を通して続けていたといえる。

 一方、『開戦前夜』が導き出した悲劇の要因は「空気」である。

 もちろん、『開戦前夜』の作り手が本来スクリーンに描こうとした“空気”の正体は、忖度と沈黙の連鎖であり、責任の回避と妥協、そして思考の停止であったはずだ。作り手が観客に伝えたかったのは、日常の「仕方がない」という小さな諦めの積み重ねが巨大なうねりになる危険性であり、周囲がどれだけ一つの方向に流されていても、データやファクトを冷静に見つめ、本当に正しいのかと自ら問い続ける理性の必要性だったのだろう。同調圧力に流されて思考を停止した先にあるものを自覚し、異なる意見を恐れず言える社会や環境を維持し続けることの重要さを訴えようとしたその姿勢には、大いに共感できる。

 しかし、物語を成立させるための「歴史の改竄」と「安易な二元論」が、結果として作品本来のメッセージを裏切る形になってしまっている。なぜなら、実在のモデルがいる軍トップを「逆らう者を最前線へ送る絶対的な悪役」として描くことで、周囲の人間は「権力に脅かされたゆえに従うしかなかった単なる被害者」になってしまうからだ。これでは、「合理的な人々が、なぜ忖度や同調圧力に流されてしまったのか」という本質的なシステムの問題から目を背けることになる。結果として、「すべては一部の悪人と、彼らが作り出した狂気を内包した『時代の空気』のせいだった」という曖昧な責任転嫁を生み出してしまう。思考を停止させ、一部の悪役や漠然とした“空気”に責任を押し付ける構造は、過去の失敗の真の原因分析を妨げ、戦後の「一億総懺悔」と同じような曖昧な自己正当化に陥る危険性を孕んでいるのである。

 いうまでもなく、抽象的な“空気”が命令書を書き、召集令状を発行することはない。最終的に残酷で理不尽な決定を下し、書類に署名したのは具体的な人間である。フジテレビ版が断罪しようとしたのは、「空気に流された人々」ではなく、自らの保身やメンツのためにその「空気」を利用し(それが意図的かどうかは別として)、都合の悪いデータを隠蔽した為政者たちであった。

 『開戦前夜』は、「表現の自由」を盾に実在の人物を矮小化された悪役に仕立て上げた。歴史の複雑なメカニズムを善悪の単純な構図に押し込めるアプローチは、観客の思考を停止させる危うさを孕んでいる。過去の過ちを分かりやすいエンターテインメントとして消費するだけでは、理不尽な同調圧力に抗うための倫理的責任をかえって見失わせてしまいかねない。それは決して、作り手が意図していたことではなかろう。

 歴史劇を構築する際、史料の空白を想像力で補うプロセスは不可欠である。だが、そこには明確な境界線が存在しなければならない。事実の断片を慎重に手繰り寄せて歴史の教訓を浮き彫りにする「真摯な創作」と、物語の消費を促すために実在の人物を貶める「安易な改竄」は厳密に区別されるべきである。「表現の自由」は、歴史に対する責任から逃れるための隠れ蓑ではない。

 映画『開戦前夜』が巻き起こした波紋は、安易な二元論や“空気”という免罪符に逃げ込むことなく、歴史の複雑な真実とどう向き合うべきか――現代の表現者と観客の双方に、その覚悟を厳しく突きつけているように思える。

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