浅利慶太と戦争直後の躍動感
蜂谷 隆(経済ジャーナリスト)
演出家の浅利慶太には一度会ったことがある。慶応高校の新聞会で1年生(1964年)の11月ころ「先輩に聞く」というような企画で日生劇場を訪ねた。3年生に「ついてこい」と言われ、数人で同行したと記憶している。2階席ロビーを通りかかった際、開いたドア越しではあったが「ウエストサイド物語」のダンスを見ることができた。
控え室でのインタビューの中身は覚えていない。ただ、浅利慶太の印象は、ふっくらした顔つきでいかにも慶応ボーイという感じであったが、眼光鋭く近づきがたい雰囲気を持っていた。31歳で、すでに日生劇場の役員を務めていたので当然かもしれない。インタビューの途中で入ってきたのが日下武史であった。彼は演技を終えてすぐに駆けつけたようで、顔にはメイクがそのまま残っていた。
さてその浅利慶太は2018年に亡くなり、今年になって菅孝行が『浅利慶太-劇団四季を率いた男の栄光と修羅』(集英社新書)を出している。さっそく手に取って読んで見てびっくりした。慶応高校時代に共産党に入党、当時の主流派の武装闘争路線のもと、山村工作隊として活動したと記されていたからだ。1952年に大学に進学して4月に学内で破防法反対のストライキを組織、5月1日の「血のメーデー事件」当日には、慶大自治会のデモ指揮をしている。しかし、一緒に活動していた姉が自死、指導部不信から6全協前の53年に共産党を離れたという。
その後は演劇活動に傾斜するが、57年12月に結成された革命的共産主義者同盟(黒田寛一、太田竜ら)、あるいは1958年12月に結成された共産主義者同盟(島成郎、生田浩二ら)に期待し、情報を集めていたようで「一定程度の共感を抱いていたことが窺われる」と同書には書かれている。
しかし、彼はそちらには進まなかった。石原慎太郎や江藤淳らと行動を共にし、保守派に身を置くようになったことは、その後の活動を見れば明らかである。事実、高校1年の僕も保守系の人物と認識していた。
ところで、慶応高校新聞会が発行する「The Highschool News」には縮刷版があった。高校時代にそれを読んだのだが、戦争直後の高校生の先端部分が大学生を相手に論争を挑んでいたと記されていた。記事の中には浅利慶太だけでなく、彼の師である小島信夫(演劇部顧問)も登場していた。小さな字の縮刷版を興奮しながら読んだ記憶がある。
僕の高校時代には全国の高校新聞部の自主的な組織として高新連(全国高等学校新聞連盟)があり、副理事長校として全国大会の事務局を担っていた。東京都には地方組織が残っており、日常的な交流が行われていた。あるとき、東京教育大附属高校の生徒と雑談する機会があったが、高度な内容を平然と議論しているのにたじろいだ。思想や哲学についての話題が、決して知ったかぶりではなく、しっかりとした理解に基づいていたのである。大いに刺激を受けたことはいうまでもない。戦争直後の時代に漂っていた躍動感は、その頃にもまだ残っていたのだろう。
今必要なのは、この躍動感のような気がする。
(2025年11月17日)
*アイキャッチ画像は Wikimedia Commons より


